国家の中心人格 結 | 想いつくまま雑論  (日本の歴史が培う文化思想原理の特殊性)第三の文化論

想いつくまま雑論  (日本の歴史が培う文化思想原理の特殊性)第三の文化論

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従って、自己の利害に腐心する者は言うにおよばず、ある大企業の社長で人望の暑い人物と言えども、国家の中心人格になることは不可能であります。

なぜなら、その人物が如何に大企業の中心人格として優れていたとしても、国家全体、国民全体から見れば、既に一企業、一党派に過ぎないからであります。

はっきり申しますれば、我々一般国民の中から国家の中心人格を見出すことは不可能なのであります。

さて、こうなってなりますと如何でしょうか。これらの要件を全て満たすことができるのは、やはり天皇であります。

我が国が無類の生命結合体系化を実現してきたのは、確かに、『和』の心が国民の間に浸透しておったことも一因であります。また、国民の生命を賭した幾多の努力もそこにありました。しかしながら、我々国民は、ややもすれば日々の生業の中で生活体系に流され、必然的に争いの当事者になる危険に晒されております。

従って、国民のこうした努力だけでは、とても国家全体としての生命総合体系化は実現できなかったと言わざるを得ません。

その中にあって、天皇は常に公正無私の立場に立ち、人とはどうあるべきかを身を以て我々に余してまいりました。

それによって、国民は己の立場に於いて『人らしく生きる』とはどういう事かを常に顧みる機会を得、自らも斯くあろうとすることができたのであります。

このような国家の中心人格としての天皇の現存在と言動、および国民の間の『和』の基本の形成との相互関係、相即不離の相互作用によって、ようやく我が国の『和』が形成されるに至ったのであります。

この意味に於きまして、天皇は国民の鑑、国民の師表、また、広い意味での国民の親としての役割を、歴史的・血統的に担って来たのだと言得るのであります。

そしてこれこそが、『天皇なくして我が国の歴史はなかった』と云われる所以なのであります。