国家の中心人格  ② | 想いつくまま雑論  (日本の歴史が培う文化思想原理の特殊性)第三の文化論

想いつくまま雑論  (日本の歴史が培う文化思想原理の特殊性)第三の文化論

何でも書こう
 (日本の歴史が培う文化思想原理の特殊性、)(哲学思想)(政治経済)などなど、

では、国家の中心人格たる要件とは何なのでしょうか。

私はこれまで、子は親を師とし、学生は先輩や教師を師とし、社員は上司や社長を師とし、常に己の前に鑑を置いて成長して来たのだと申しました。

そして、この中心人格が中心人格として成り立つためには、人の集まりの中の如何なる権力や党派にも与せず、超権力・超党派の立場に立って、公正無私なる態度を貫かねばならないのだと申してまいりました。

そう致しますと、先ず第一に、国家の中心人格もまた、政党と言わず企業と言わず、国家内部の如何なる権力機構、如何なる党派をも超越した立場に立っていなければなりません。

そのため国家の中心人格には、法によって保証された自由も人権もなく、政治・経済上の権力もなく、またそれを欲することもできないのであります。

我々国民には法によって保証された自由や人権がありますが、これは主に生活体系に於ける力と力のぶつかり合いの妥協の産物であります。言い換えれば、自由や人権は、何等かの党派に属し、他者との競争に身を置かざるを得ないが故に必要とされるものなのであります。

第二に、国家の中心人格は国家内部の如何なる分野の人間でも仰ぎ見ることのできる、国民共通の鑑でなければなりません。

則ち、国家の中心人格が、企業家、教育者、宗教家を問わず、国民の誰からも鑑とされるためには、高い人格という、ただこの事によってのみ敬慕信頼されねばならないのであります。

従って、、、、続く