言論には言論で~パリ47歳教師殺害事件の前夜~
パリの47歳教師殺害事件の事前の様子がわかってきました。
- 47歳教師サミュエル・パティは、授業中にモハメッドの風刺画を見せる際に、不快になりそうな生徒は退室してよいと言った。
- しかし、イスラム教徒のうち、ある少女と別の男の子が教室に残った。
- その13歳の少女が、モハメッドの裸の絵を学校で見せられたとして、親に相談した。
- その子の父親は、自分が通っているモスクに相談した。
- さらにその父親は、ネット上で、その教師をクビにさせるために学校に陳情しようという投稿をした。教師の名前は書いていなかったが、身元がわかるような内容だった。
- するとすぐに、教師の実名や身元をさらすような投稿が始まった。
- モスクは、教師解雇運動を支持し、父親にコンタクトをするようにサジェストした動画を投稿した。教師殺害後、モスク側はこの動画を削除しているという。
- 首を切断されたパティの死体が発見された。
- 犯人とされる18歳のチェチェン移民の少年は、警察との撃ち合いの末、射殺された。
言論には暴力で?
なんかいつも思うんですが…「言論には言論で」という常識が通用しない相手もいるんだということを、よくよく理解しないといけない、と。この事件では、地域のモスクというのが犯行に至るまでの重要な拠点となっていて…しかし、犯行については、暴力はいけないと非難しているという話なんですが、もしもモスクがなかったら、こういう事件は起こっていなかった可能性が、高いですよね。
しかし、実際問題として、イスラム教徒が住んでいる場所には、必ずモスクができるわけで、そしてモスクというのは、こういう犯罪の前段階として機能してしまうということも、あるんだな、と。
モスクというのは、必要なものなんでしょうが…言論には言論で、教師の解雇を求めていたのは、それはそれでいいですが、モスクの構成員の中から、言論を暴力で封じる人間が出てしまったということ、これについては、「モスクに責任がない」とは、言えないのではないでしょうか。
まもっと、モスクとして、「言論には言論で」「言論を暴力で封じてはならない」ということを、徹底して教えるべきではないのか、と。
特に、文化の異なる人たちと「共生する」という場合には、これは絶対に必要なことでしょう。