源義経

故事に例えれば…

まね、山本太郎と大西つねきの関係について、いろんな故事に例える人がいますが、私が最近思っているのは、あの2人というのは、「頼朝と義経」に、一番似ているのではないのかな、と。
太郎と頼朝というのは、非常に似たような立場に、あるわけですね。
「王将」であると、玉であって、その人がいなければ、成立しないという、なんらかの新しいグループの中心である、と。
そして、最も重要なことは、「四方八方敵だらけの中で、やっとのことで、新勢力を成立させ、軌道に乗せようとして必死の状態である」ということ。
この状態を、かりにAとします。
そういう状態の中で、

  1. 義経…戦功を立てたことや、弟であることに慢心して、最もやってはいけないことをやった=鎌倉の了承を得ずに、官位をもらってしまった
  2. 大西つねき…太郎の右腕として知られてきたことや、若者の支持を集めていたこと、党内で幅広く活動をしていたことに慢心し、やってはいけないことを平然とやり始めた=党のコロナ対策と反対のことを言い、実行するとか、命の選別発言を行った。

義経の場合

一番の問題は、Aである、ということですよね。
頼朝が、あれだけの仕打ちをしたのも、Aだったからであり、義経の行動が、Aを無視し、やっとこさでこしらえた新しい勢力を、根本からブチ壊しかねないものだったから、です。危険度がMAXだというふうに、頼朝や、鎌倉に残っていた側近たちは、考えた。
そのままにしておいたらどうなるかって、鎌倉幕府は、京都で朝廷に従う義経派と、鎌倉で武士の権利のためにがんばっている頼朝派に、二分されていくでしょう。
そして、そうなれば、頼朝派と義経派の間で、戦争をやって、勝ち負けを決めるしかない。しかし、そんなことになれば、やっとのことでこしらえた新しい勢力は、大いに危機に陥ることでしょう。
弟であるからこそ、厳しく対処をしなければならなかった。
そういうことをしたら、絶対に許さないぞ、と。

大西さんの場合

大西さんの場合は、完全に慢心していた。
この人はたぶん、れいわという党の株の一部を持っているつもりだったんでしょうが、太郎には、そういうつもりは、皆無だったということが、今回のことで、わかりますね。
大西さんは、「自分が党の中心だ」というくらいの気分でいた…だから、党の方針と反対のコロナ対策を堂々と打ち出してみたら、何も文句を言われなかった。
もっと慢心した。
コロナは、受け入れて、救えない命を見捨てて、淘汰に任せるしかないんだという考え方を、公表した。
それでも、党からは文句を言われなかった。
だったら、この自分の考え方を、党の方針にしていくことも、可能だろうと思った。
そしてついに、若者の負担を減らすために、高齢者から逝ってもらうという意見を、公表した。
今度は、タダでは済まなかった。

ずさんな党運営が大西の慢心を招いた

こうやって、大西さんは、徐々に慢心を表に出してきたわけであって、7月3日になって、急に出てきたものでは、なかったんですよね。
最初のうち、党が何も言わなかったのは、気が付いていなかったからで、それは、党運営が行き届いていなかったから、です。山口泉さんのような方からの警告メールなんかも、たぶんおそらく、誰も目を通していなかった。
もちろん、ウルトラ忙しい太郎も、大西さんが何をやっているかなんて、知らなかった。

自分への評価を過信していた

義経の場合も、大西さんの場合も、自分への評価を過信していた、というところが、共通しています。
義経は、度重なる大戦功と、弟であるということ、大西さんの場合には、自分が太郎の右腕のように「世間では」見られているという慢心、そして党内でほかのメンバーを招いて対談をするなど、れいわ構成員として、かなり幅広い活動をしていたことなど。
が、義経は、頼朝にとっては、自分で思っていたほどの重要人物ではなく、大西さんも、自分で思っていたほど、太郎から信頼されていたとか、党にとって、なくてはならない人材だったというわけでも、なかったんです。

歴史は繰り返す

だから私は、頼朝と義経のケースによく似ているなと、思うんですよね。
頼朝は、粘着質な人間だったので、どこまでも追いかけて行って、殺すところまでやりましたが、太郎は、そういう感じではありませんし、大西さんのような言っては悪いですが「小物」を、潰すところまでやるという必要性には、欠けますね。
いっぽうで、義経というのは、生かしておけば、鎌倉の正当な後継者として、いつでも担がれる可能性があったから、殺すか、永遠に監禁するところまでやらねばならなかった。そして、頼朝は、人並み外れて粘着質な性格だった。
大西つねきさんの件を見て、やっぱり、歴史は繰り返すんだなあと、思ったりするのは、私だけでしょうかね。