「学習性無力感」と国家ぐるみの民族差別の関係
比嘉光龍(ふぃじゃ ばいろん)さんが仰る通り、長期にわたる負の歴史に苦しめられるだけで無く、学習性無力感陥っているのが琉球人だ。専門家による心のケアの治療など県レベルで組織的に行われるべきではないだろうか。 https://t.co/q1CNWo6eim
— Education Pilgrimage (@YugenEarth) June 27, 2020
このツイートを拝見した私は、以下のようにお願いしたところ、以下のようなお返事をいただきました。
アイデンティティーの問題から教育、経済活動、米軍基地、自衛隊配備、、、まで我々の生活に直結するあらゆる面で当事者・琉球人は自らの意思を反映できないと言う焦燥感に駆られ挙句の果ては無力感に陥ってしまい何もする気が無くなってしまう事。
— Education Pilgrimage (@YugenEarth) June 28, 2020
無力感というのは、私にもありますが、実は、在日コリアンや、沖縄の方など、国家ぐるみのいじめを世代を超えて受けてきた方たちには、私とは違う「無力な雰囲気」を感じることが、多々ありました。
何か、違うんですね、ふわっとしている、というか。
つついたときに、ゴーンとつき返してくるということが、ない、みたいな。
説明しにくいんですが。
そして、私は、例えば韓国本土に住んでいるコリアンの方と接触したときや、日本以外の外国に住んでいるコリアンと接触したときには、全く違う感じを持ったのです。
その人たちは、ひるまないし、つつかれれば、ゴーンと返すのが当然だ、という、そんな感じ。
沖縄の人というのは、私が思うには、非常に上品なんですが…もともと上品なのが文化、という部分も、あるでしょうが、何かふわっとしたところがあって、それが、この「学習性無力感」というもので、説明できるのかもしれないな、と思いました。
在日コリアンの方の場合には、日本以外の場所に住んでいるコリアンとの接触によって、「学習性無力感」については、かなりの改善が期待できるのではないか、と私は思っています。
沖縄の方についても、たぶんそうで、海外で長く暮らしている琉球の二世とか三世とか、そういう人たちは、たぶんですが、「学習性無力感」というものは、もともと持っているとは、思えないので。