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「厚遇」されるためには、「自分の価値」を高めるしかない

前の記事の続きになりますが。
「厚遇」とか「冷遇」とか、「自分に対する他人の扱い」というものばかりを気にしている人生というのは、たぶんつらいものなんでしょう。
「自己評価」が高すぎて、「他人からの評価」と一致しないという場合には、常に不満を感じていなければなりません。
まーいつかの総理大臣じゃないですが「自分を客観的に見られない」という、そういう話だろうと思います。
そういう人は、結局は「自分自身の問題」であって、専門家の助けを得るべきだと、思うんですね。
だって、「自己評価」が、「客観的評価」よりも、はるかに上のほうにあるわけですから、そこのギャップを埋めていくには、自分で努力をするか、または「自己評価」のほうを「改善」していくしかなく、改善していくなら、そういう専門家の助けを得るしか、ないでしょう。
自己評価が高すぎて苦しんでいる人の相談に乗ってくれるような、「医療の専門家」ですよ。

私は世の中を恨んでいない

私は、半世紀以上生きて来て、自分が「冷遇された」というふうに、思っているかというと、思っていません。
が、「自分の努力以上に厚遇された」とも、思っていませんね。
自分がやっただけの評価+α程度の評価を受け、それに合った扱いを受けたと、思っています。
自分が手を抜いた分野や、手を抜いた時期については、それなりの評価しか、受けられなかったけれども、それは、自己評価とも、だいたいは一致しています。
ものすごく努力をしたのに、まったく報われなかった…という記憶は、あまりない。
やればやったなりの評価が得られ、長期的に見れば、公平+α程度の評価は、得てきたのではないかと思っています。
社会に対して、恨んでいるかって…いませんね。
こんな私を生かしておいてくれて、ありがたいことですと、このごろは、思っているかな。
そして、平和な時代に生まれたことは、非常にラッキーだったと思っているし…だから、過去に平和な時代に生きられなかった人たちのことは、忘れたくないと、思っています。

長期的には努力はそれなりに報われる

長期的に見た場合には、努力というのは、だいたいそれに見合ったものが得られるし、自分だけが「一生を通して」冷遇されるような特殊な理由というのは、ほとんどの場合には、ないのです。
「構造的な差別」のような理由は、別として、ですよ。
そして、他人を横目で見ては、誰がトクをしているだの、誰はズルをしているだのと、そんなことばかりを考えていても、「自分の価値」というのは、上がっていかない。
厚遇をされたければ、「自分の価値」を上げる以外には、方法はなく、そのためには、努力をするしかなく、そして他人のトクやズルばかりに目をこらしていても、「自分の価値」は、上昇するというわけは、ないのです。
それに、「恨み言ばかりを言っている人」というのは、他人にとっては、うっとおしい存在ですよね。