
厚遇とか冷遇とか
誰かや、何かが、「自分」を厚遇してくれたから好きだ、冷遇されたから嫌いだ、こういう感覚は、子供のものだと、思うんですね。人生というのは、そういうシンプルな法則で、出来ているものではない…。
それを知るのは、大人になってからです。
例えば、よく、先生が厳しかったのは、こういうことだったんだなということが、大人になってからわかるとか、親が特定のことがらに対して厳しく躾けたことについて、感謝している、と思うようになる、とか。
私なんかも、子供のころに節約の習慣をつけさせられて、贅沢をさせてくれなかったことには、今では感謝しています。
もちろん、子供のころは、面白くないと思っていましたし…そうですね、30歳くらいまでは、面白くないと思っていましたが、今では、それでよかったな、子供のうちに贅沢を覚えていたら、大人になってからの人生が、大変なことになっていたと、思っています。
厚遇と冷遇の本当の意味
そもそも、何を「厚遇」と思い、何を「冷遇」と思うのか、それについても、大人と子供では、違うわけですよ。子供はただ、ちやほやしてくれて、なんでも思い通りにしてくれる相手が、「厚遇してくれている」と、思うに決まっています。
ですが…大人になると、「厚遇」の意味は、違ってきますよね。
本人のことを、長期的に考えて、最もよいと思うような対処をしてくれる相手というのが、「本当に厚遇してくれている人」だということに、気が付くようになるんです。
その場その場で、本人がニコニコするような結果を与えるというのは、簡単ですが、長期的に見れば、それは「厚遇している」というふうには、言えません。
「ちやほやされた誰か」というのは、仕事ができるようにはなりませんし、他人に尊敬されるような人物にも、なれませんから。
自分をちやほやしてくれる相手が、教師や上司や先輩であったという場合には、それは「手を抜かれている」「見込まれていない」と思ったほうがいいと、私は、思っています。
大人になればわかる
厚遇してくれたから好きだ、冷遇されたから嫌いだ、これを考えるときには、そういうことを踏まえなければならないということは、大人なら、普通は誰でも知っています。例えばですが…あの上司は、愛想はなかったけれど、あの人がきちんと指導をしてくれたおかげで、自分が成長できたとか、そういうふうに考えるようになる。
あの先生は、厳しかったけれども、そのおかげで、慢心しないことを学んだ、とか。
いつもひたすら、ちやほやされたいと思っている人は、どこかで「大人になるプロセス」を、飛ばしてしまった人、なのかもしれません。そういう人がいるとしたら、気の毒ですね。