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紅顔の少年少女…ではなく

単純な考え方をする人は、紅顔の少年少女なのかと思うけれども、このごろは、ぜんぜんそうではなかったりする。
世の中というか、人の世というのは、複雑なものである。
そして、矛盾している。
誰かが、社会に出るというのは、矛盾の学校に入るようなものだと言ったけれども、そのとおりである。
自動車学校で習ったことは、免許を取ってからは、ほとんど役に立たないのと、よく似ている。
が、最初から「なんでもいいんだよ」「みんながやっていれば、やってもいい」というふうに習うというのは、間違いだろうと思う。
正しいやりかたを知っていればこそ、「ズルをしている」「違うことをしている」という認識が、持てるわけで、最初からズルのほうだけを習うというのは、間違いだろう。
ズルであるということを知りながらやるのと、もともと知らないのとでは、違う。
そして、矛盾の学校に出る前に、何を教えたらいいのかって、それはやはり、自動車学校と同じではないのかな、という気がする。
どうせ、いつかは、自力で答えを探さねばならないときが来るから、温室で育てるというのは、本人のためには、ならない。
長期的に見た場合には、スパルタ教育を受けておいたほうが、社会に出たときに、矛盾への耐性が、つく。
例えば、戦後、多くの宮家が廃止になって、それまで、やんごとなき生活をしていた人たちが、ある程度のお金をもらって、野に下ったわけである。
そういう人たちは、すぐに騙されてしまって、一文無しになったとか、殿様商売をやってしまって、商売にならなかったりした、という。
そうは言っても、「世の中は、恐ろしいばかりのものだ」というふうに教えるというのは、それはそれで、よくない。
が、自力で「矛盾の学校」に入ってからの対処策を考えることのできる力をつけてやるというのが、教育というものではないのかな、という気がする。

矛盾の学校をどう生きるかを考えるのが、大人になるということである

おじさんやおばさんになっても、矛盾の学校への対処法が見つけられず、誰か特定の人や人たちが悪いんだと思って、特定の人や人たちが、いなくなればいいんだと、言っている人もいるから、非常に驚く。
まだ、そんな段階なのか、と。その人たちの年齢であれば、矛盾の学校をどうやって生きるかということを、下の世代に向かって「教える」立場のはずなのに、教えられる生徒のほうと同じことをやっているのである。
それは、温室育ちの坊ちゃん嬢ちゃんのなれのはて、というふうなことなんだろうかなあ。

1人で何役もこなすのは、自分が求めるような他人がいないから

挙句の果てには、「自分と自分」で、会話を始めてしまったりする
「自分が求めるような他人」がいないから、自分がその役を務めてしまうのである。
それは、子供のころは、誰しも、「空想の友達」を作って、1人遊びみたいなことをしたりすることは、あるだろう。
が、50や60を過ぎて、そういうことをやっているおじさんやおばさんは、もはや、気の毒な感じとしか、言えない。
この前なんか、中国共産党は、地上から消えるべきだとか、言っていた人がいたが、それだって、いいトシこいたおばさんである。
「地上から消える」って。そんな、思いっ切り中二病みたいなセリフを、恥ずかしげもなく。
というか、中国というのは、キミの国では、ないと思うけど、なぜキミに、消えるかどうかの決定権が?

…やっぱり、甘やかして育てると、ロクなことはないのかもしれない。
「自分が思っていたような社会ではなかった」と思って、腑に落ちないということは、当たり前の話であって、「なんか違う」と思うのは、彼らだけではない。
だからこそ、矛盾の学校なのである。
運転免許を取って、道路に出たら、決まりを守らない人だらけであって、自分だけが守っているのは、アホらしいと思い、誰かのせいだと思って、誰かを恨みたいと思い、誰かのせいにしたら、その人がいなくなれば、すべてがよくなる、とか思う。
そんなのは、免許を取って、最初の半年くらいの話である。普通の場合には。

自分がいなくなったほうが、話が早いのではないか

特定の他人なり、民族なり、国が、いなくなったらいいと言っている人は、自分が同じことを言われても、絶対に、恨んではいけない。
また、自分が「処分対象」に選ばれてしまったという場合でも、諾々と従うべきである。
というか、他人に向かって、消えろと言っているくらいならば、自分が出て行けばいいのではないのか。
どこかに、キミらの探している桃源郷が、あるかもしれないし。