リス

下衆な人の論理

泥棒は、他人が泥棒に見えるだろう。
自分がするんだから、他人だってやるだろうと思って。
ウソつきは、他人もウソをつくと思うから、ウソをつかれても、怒らない。
だから、ウソをついたことを責められても、「オマエもつけばいいじゃん」などと思って、逆ギレする。

ウソをつき、他人の揚げ足を取り、他人を悪しざまに言い、他人がいなくなったらいいと思っているような人は、他人もそう思っているに違いないから、自分がそう思っても、そして行動に移しても、構わないだろうと思っている。
そういう人のことを、なんと呼ぶのが適当かというと、下衆だろう。
下衆だなあ、と。

私はウソをつかない。それはまあ、そういうふうに育てられたからで、いつなんどきでも、父親の仁王様のような顔が、浮かんで見えるから、ウソはつけないし、借金もできない。
世の中には、そういう人間もいるのである。
私にとって、父親というのは、「絶対にしてはいけないこと」を教えたという、そんな存在であった。
「これをしてみたらいい」というふうにすすめた人ではなく、「これだけはしてはいけない」ということを教えて、線を引いて見せた人間、と言える。

いなくなったら、もったいないかもしれない

自分と家族と自分の信者以外の他人は、いなくなったらいいと思っているかどうかって、たまには、あまりにも下衆な人は、いなくなればいいなと、思うこともあるけれども、基本的には、人間というのは、相互互恵ができる関係だと、思っている。
できない人もいるけれども、たいていの人は、何かをしてあげれば、してくれと催促をしなくても、何かをしてくれ、それを続けるうちに、普通の、というか好ましい人間関係というものが、築かれるのである。
他人のうちのほとんどとは、こういう関係が作れる、と思うから、自分と家族と自分の信者以外の他人は、なるべくいなくなったらいいなどとは、ほとんど思わない。
それぞれの人は、何か特技を持っており、それを生かして、他人の役に立ったり、助けることができて、そして、そういう可能性のある人たちに、「いなくなれ」と言ってしまったら、せっかくの、もしかしたら発揮されたかもしれない特技が、埋もれてしまう、ということになる。

下衆な人は、世界は荒野だと思っている

世の中の他人のほとんどが、自分と同じように下衆だと思っている人は、不幸である。
そういう人は、荒野を生きているのだろう。
誰のせいなのかって、ある程度生きたら、生きたことの結果のほとんどは、自分のせいとしか、言えない。
親なんてものは、先に死ぬし、嫌なら、出て行けばいいんだから、親のせいにばかりは、できない。
例えば私は、在日コリアンに「嫌なら帰れ」という人に対し、発想を変えてみろと、思っている。
その人たちを味方にすれば、どんなにすごい戦力になることか。
そして、在日コリアンというのは、優秀な人が多い。
勤勉で、賢くて、礼儀正しく、芸術性に優れた人も、多い。
味方にしなくて、どうするんだ。

私が日本人至上主義になりかけたころ

実は私は、だいぶ前に、日本人至上主義になりかけたことがある。
それは、近所で強盗事件が起きて、警官が聞き込みに回って来たりしたあとだっただろうか。
その事件は、結局は、中国人が犯人として、逮捕されていたと思う。
私は、日本人だけで暮らしたいな、などと思ってしまった。
もちろん、今と同じように、天皇なんか要らない、靖国神社はないほうがいいという部分では、特に変わりはなかったのだが。
そして、考えているうちに、ある日、はっと気がついたのである。
そうだ、私の先祖は、どっか西のほうから来たに決まっているではないか。
何代前に来たのかは、わからないけれど、辿って行けば、朝鮮半島か、中国のどこかに辿りつくに決まっている。
そうなると、「日本人至上主義」とか、「日本人だけで暮らしたい」ということの「意味合い」というのは、「日本人」をどう定義するかという問題とは、切り離せないから、ひょっとすると、自分も、出て行く組のほうに入るのかもしれない。
だいたい、日本人って、なんなんだ。
それは、中国人の亜種である。
西洋人やアラブ人に聞いて見なさい。必ず、そう思っているから。
そして、その見方は、客観的な評価であり、そして、正しい。
だから、「日本人の定義」ができないのに、「日本人だけで暮らしたい」だのと言っていることの矛盾に、気がついたのである。
私の遠い先祖は、いったい、どんなみすぼらしい小舟に乗って、やってきたのだろうか。
もともとは、どこら辺に居たのだろうか。
そんなことを、考えてみる。
なんにしても、江戸末期に生まれた先祖のところまでしか、わかっていないのである。

日本人の定義

「日本人」は、緩くは定義できるけれども、それは、
  1. 血統
  2. 文化的な意味合い
  3. 法的な意味合い
の3つの分け方があり、そして、1と2については、「定義」が非常に難しく、ほとんど不可能だと言っていい。
ネトウヨが言っているように、何代前の先祖が日本で生まれていたとか、そんなことを言い出したら、そもそもの話が「奥さんが絶対に浮気をしていなかったという証明」まで、しなければならなくなって、もう不可能である。
2については、これはもう、自己申告の世界である。
ネトウヨというのは、本当の意味での日本の文化というものは、ほとんど身に着けているふうではないけれども、なぜか、純日本人なんだそうだから、自己申告の世界、ということで、「定義」は、不可能である。
かろうじて分けることが可能なのは、3だけである。
3だったら、それこそ、ツルネンさんのように、誰でもなる可能性があるわけで。

「日本人とは何か」については、日本人以外の誰かに聞け

以前にも紹介した、中国系アメリカ人のトニーさんは、日本人の知り合いもいて、日本人には詳しいほうだと、言っていた。
そして、私と親しく接するようになってから、それまでの彼の「日本人に対する理解」というものは、変わったようでは、まったくなかった。
「私」というのは、どうも、「やっぱり日本人だね」という、文化的には、そういうことだったのらしい。
自分では、日本人ぽくないとか、ほとんどの同胞とは気が合わないと、思っているのだが、中国系アメリカ人の目から見た場合には、ほかの日本人と、あまり変わらなかった、日本人としての特徴を、いいものも悪いものも、備えている、ということだったらしい。
トニーさんは、それについて、ひとつこう言った。
「日本人というのは、『言わないこと』に、意味があるんだ」と。
これは、どういうことかというと、日本人が、自ら進んで、あれこれとおしゃべりをする内容というのは、あまり、大したことではない、と。
日本人が、「何を言いたがらないのか」というところに、本当に考えていることが、隠れているんだと、そう言ったのである。
へー。
私自身は、そんなつもりは、まったくなかったのだが。
が、こういう人の意見こそ、「天の声」なのである。

「天の声」とは、自分とは違う誰かの目である

自分とはかなり違う環境の人と付き合ってみるということの最大のメリットは、ここにある。
そういえば私は、トニーさんの性的志向について、はっきりと本人から教えられたことはなかったけれども、ある時点で、ほのめかされて、わかったのである。
が、特にその話は、しなかった。
しないようにしていたのである。
なんでかと言われても、わからない。
まあ、FBにシェールの写真が貼ってあるとか、そういう時点で、「もしかして」と、思ってはいたけれど。
でも、トニーさんの志向についての話は、最後まで、今に至るまで、一度もしていない。
なんだか、本人が切り出すまでは、するべきではないと、思っていたのだ。
もしも、本人が、「実は…」と言ったら、たぶん「ああ~うん、知ってたけど、別に」みたいな、そういう反応をしたと思う。
私はトニーさんに、そういうことで、気を使ってもらいたくなかったのである。
どうでもいいことだし。
トニーさんは、パートナーと長く暮らしており、そのことを、少しずつ少しずつ、ほのめかしてきたのだが、私はそれについて、特に、これと言った反応は、しなかった。
トニーさんが、パートナーとどこへ行ったとか、何をしたという話をすると、「ああそう」と。
トニーさんは、そのことを言っていたのかもしれないなあ…。