蜃気楼

バカバカしすぎんねん

何がバカバカしいって、自民党の公募に応募したことがあるような人が、「安倍が」とか言って、自分は安倍とは無関係だというふうに、「安倍のやること」に対し、エラそうな説教をしていたりする場合である。
10年前には、「安倍氏に会えたとは、いい公募に当られたと思います」なんて言っていた人が、「安倍が」とか、「桜を見る会が」とか、どの口で言えるんだろうと思うと、呆れた口がふさがらない。
もしも公募に通っていて、バッジをつけることに成功していた暁には、喜び勇んで「桜」に参加し、安倍と昭恵の腰ぎんちゃくになって、おべんちゃらに徹していたに決まっているんだから。
それで「本気じゃなかった」「ひやかしで受けた」などと言ってみても、いったい誰が、信じるというんだ。

説明責任

私が言いたいのは、「節操というものを考えろ」ということで、もしも、10年前には安倍が大好きだったとして、今は、そうではなくなっているという場合には、それはそれでいいけれども、10年前には、なぜ、安倍に逢えた他人がうらやましいと思っていたのか、なぜ、ぜひとも安倍と一緒に働きたいと思っていたのか、そして、なぜ、今では、気が変わったのか、それを、きちんと説明し、ミソギを済ませてから、安倍の批判でもなんでもすればいい、ということである。
当たり前のことではないのか?

河村を批判したいなら、なぜ、以前には、河村をアゲ、ライバル市議のブログを荒らし、減税日本から公認をもらいたいと思っていたのか、それを、きちんと説明し、ミソギをしてからやれ、ということである。
河村は、2012年から、急に「南京否定論者」になったわけではない。
その証拠は、いくらでもある。
「知らなかった」というわけはなく、市議になりたくて河村新党から公認をもらおうとしていたような人間が、市議会で南京の件を問われ、答弁をしている河村の様子を、知らなかったというわけはない。
【09.10.02】河村たかし河村たかし名古屋市長の「南京大虐殺」認識を問う:革新・愛知の会
河村たかし名古屋市長は9月15日、9月定例市議会で自民党議員の質問に答える形で、「南京大虐殺」について答弁しましたが、その要点は以下の2つです。

(1)当時の南京の人口は30万人以下だったから、30万人が死んだというのは絶対に真実と違う。

(2)自分の父親が敗戦時に中国人から優しくしてもらって名古屋に復員した。大虐殺があれば事件の8年後こんなに優しくするはずがない。
だから、当時はなぜ、それでも河村についていこうと思ったのか、歴史認識などは、どうでもいいと思っていたが、今では気持ちが変わりましたとか、そういうふうに、説明をしろ、というんだよ。
当たり前のことではないのか?

口を極めて罵っていたネトウヨと、いきなり妥協して、手を組むとか、それなら、なぜ、それまでは、そのネトウヨを罵っていたのか。
そのネトウヨの歴史認識なり、差別意識は、どうでもいいと思っているのか、それを、ちゃんと、他人に向かって説明しなさいと、いうんだよ。
そうでなければ、自分になびかないから、罵る、というだけの話になってしまうではないか。
「説明をする」というのは、当たり前のことではないのか?

そもそも、ネトウヨではなく、東アジア共同体主義者の私を、口をきわめて集団で罵るというのは、なぜなのか。
私の歴史認識や、差別意識に、なんの問題があるというのか。
結局のところ、主義や信条とは、まったく無関係な話であって、自分になびかないから、罵る、というだけの話ではないのか。

壊れた神輿をかつぐのは、なぜなのか?

そして、周囲の人間は、なぜ、「まともな説明」を、要求しないのか。
怖いのか。
要求したら、私と同じように、集団いじめに遭うと思うから、怖くて、「おかしい」と思っても、何も言えないのか。
それなら、その神輿のやっていることは、「力に任せて威圧をし、口をふさぐ」という、権威主義の安倍と同じであろう。
あなたがたの「神輿」は、そういうシロモノでも、いいんですか。
それなら、あなたたちの「信条」とは、いったい、なんなのか。
歴史認識がどうでもよく、差別意識もどうでもいいなら、あなたたちは、いったい、なんなのだ。
そろいもそろって、いいトシをして、アメブロあたりのネット上は、本当に、恥ずかしい人間だらけである。
実生活の不満をネットで晴らそうとして、ネタを探して、ウロウロしているようなおじさんやおばさんには、ロクな人間がいない。
普通の人で、普通に趣味のブログをやっているような人には、こういう壊れた中高年は、ほとんどいない。
普通に生きられないというのは、本当に、困ったことである。