アジア

日常生活では、普通にやっていること

この件については、なぜ、私たちが日常生活で普通にやっていることが、国と国の間では、できなくなったのか。
というふうに思うのである。

「強者負担の原則」と「敬意」

「文化」というものは、文化として認識されていなければいないほど、文化なのである。
逆説的な言い方だけれども、そうなのである。
そして、北東アジアの民族は、「一定の文化」を、共有している。
中国の文化圏、黄河文明の子孫たち、ということだけれども、われわれも含む、その人たちだけが、共通に維持している文化というものが、間違いなく、ある。

それは、「強者負担の原則」で、これは、「敬意」との交換になるのであって、敬意は、まるで通貨のように、この文化圏の範囲内ならば、通用するのである。

堀江貴文が、どうしても尊敬されなかった理由

この場合の「強者」というのは、金を持っているとか、力持ちであるということとは、限らない。
それは、この文化圏における「強者」というものは、金や力だけで決まるわけでは、ないからだ。
私たちも、その文化を持っているということが、何よりもわかるのは、例えばだけれども、堀江貴文のような人が、決して、本当には尊敬されなかった・されないことを見れば、明白なのである。
堀江は、アメリカ人だったら、「金儲けが上手くて、スゲー」というその一点でもって、本気で尊敬をされていたはずであるが、日本では、どうしてもそうはならない。
これが、「文化」の違い、なのである。

この文化圏では、末っ子が最もおトク

私は、中国・朝鮮・日本は、三兄弟だというふうに、思っているけれども、それは、私が勝手に言い出したことでは、なく、中国の人から、やんわりと、教わったことである。
そして、この原則に則っている限り、この文化圏の人たちとは、うまく行くのである。
琉球の人を、どこに位置付けるのかということは、なかなか難しいので、ここでは、ひとまず置いておく。

「関係性」は、変わらない

中国と朝鮮が、公称で五千年の歴史がある、となっており、そして、事実上は、朝鮮の文化というものは、彼らよりも西から来た=大陸から来たものの影響を、受けているのであって、その逆ではないから、中国が長男ということで、これは、いいはずである。
日本は、公称で二千年くらいの歴史があるとして、実際には、がんばっても、1500年くらいのものかもしれないが、ともかく、三男、末っ子ということで、いいわけだ。
「その関係性」というものは、この文化圏においては、今からがんばっても、変わらない、のである。
それは、金を持ったから、または、人口が増えたから、歴史が五千年あるということにはならない、ということと同じように、「不可能」なのである。
そして、私が言いたいのは、「末っ子として、その役割を果たしながら生きることは、損ではない」という、ことだ。
損ではないどころか、「この文化圏」においては、最もトクな立場であるとも、言える。
「強者負担の原則」が、通用する場所では、末っ子が、最もトクをするに決まっているではないか。

課長が一万円払う理由と、新人が千円でいい理由

それは、日常生活でやっていることと、同じなのである。
課長は、「課長」「課長」と言われ、ちやほやされるが、飲み会では、1人だけ、一万円払い、ほかのメンツは、1人二千円だったりするわけである。
そして、1人が二千円払う中で、新人くんは、「オマエは千円でいいや」と、言われたりするわけである。
これが、「この地域の文化」、なのである。
そして、私たちは、通常であれば、「オマエは千円でいいや」と言われている立場なのであるから、おトクに決まっているではないか。
通常であれば、千円でいい、のである。
そして、今は、千円以上出しているのは、どうしてかというと、
「新人くんであることを、認めたくないから」
「過去に悪さをしたことを、素直に認めたくないから」
である。
ともかく、通常ならば、強者が、名を取って実を捨て、弱者は、実を取る、というのが、ここの文化なのである。
その最も典型的な「最近の例」は、中国が、日本に対する戦後賠償請求権を放棄したこと、である。
「おっきいにいちゃん」だから、「末っ子」の悪さを、許した、のである。
それは、「当時の末っ子の代表=田中角栄」が、頭を下げて来たから、であり、「敬意」と引き換えだったのである。
そして、こういうことは、他の文化圏では、通用せず、例えば、アメリカは、国連の負担金を最もたくさん払っているからといって、「強者負担の原則」を、「敬意」と引き換えに実行しているかというと、そうではなくて、それ以上に、何倍もに渡って「弱者からの搾取」を、しているわけである。
それ=強者が弱者から搾取するのが、当然であるというのが、そこの文化だからである。
それが、文化の違いだ。

「地域の末っ子」として生きる

私が言いたいのは、「地域の末っ子」として生きるということは、損ではない、ということだ。
それを知っていたのが、江戸時代までの日本人で、それがわからなくなって、「もう末っ子じゃないぞ」と言い出したら、自分の国だけでなく、地域全体を、滅茶苦茶にしてしまったというのが、明治以降の日本人の「いびつな姿」である。
だったら、自分のためにも、みんなのためにも、末っ子としてよりよく生きる方法のほうを、模索するべきだというのが、私の考えである。
それは、倫理的にも、実利的にも、正しいと、私は思う。