「強さ」だけが問題だった

最近、思うのだが、ヒラリー・クリントンの大統領選挙スローガンというのは、ものすごく「本質」を言い切っていたな、と。
Stronger Together
これは…日本語だと、確実に置き換えることは、なかなか難しいのだが。
「一緒にいれば、今よりももっと強い」。
だから、「1人だと、イマイチ強くない」というのが、前提なのである。
あなたは、1人じゃ、何もできないでしょ、だから、とにかく、まとまりましょ、という。
数が多いほうが、強いに決まってるでしょ。
そして「強い」ほうが、いいに決まってるでしょ。
そういうもろもろを、2つの単語で言い切っている。
すごいスローガンだったなあ、と思う。
クリントンと、彼女が代表している「人や団体」が、なんだったのか、その本質を、よく言いあらわしている。
ここには、「モラル」というものは、ほぼ関係ないわけ。
「強くなるために、一緒になりましょう」と言っている、そして、「強くなりたい」と思って、寄ってくる人は、誰でも受け入れる。
そういう話。
だから、Stronger Togetherと言われて、「そうだそうだ」と思って、仲間になったという場合には、当然のこととして、togetherになっている状態が、強くはなくなったと判断されたら、togetherな状態は、解消する、ということに、なるわけ。
「まとまることによって、強くなる」ということだけを目的に、集まってくるわけだから、一緒にいても「強くはない」というふうに思ったら、離れて行くわけよ。
当然じゃん。
そこが、問題なわけ。
モラルや、正邪とは、無関係な「烏合の衆」というのは、そういう体質のはずであって、そしてそれが、「クリントンが呼びかけた相手」だった、ということなのである。
こういう形で、自分への支持を呼びかけるという場合には、それは、「私が強くなくなったら、離れて行ってもいいわよ」、ということのはずである。
だから「私と一緒にいる限りは、あなたは、1人でいるよりも強いということは、保証するわよ」と、言っているのである。
問題にされているのは、どこまでも、「強さ」なのである。

日本でも効果が出始めた「アイデンティティポリティクスによる分断支配」

そして、クリントンが代表する「この勢力」の「精神」を受けついだのが、最近の日本の「アイデンティティポリティクス勢力」だと、思う。
「徒党を組むことで、前よりも強くなりたい」と思って、寄り集まる、という、その精神。
だから、「強さ」が失われることこそが、最も問題とされるのである。
強さを目的として、集まっているのだから、それを失ったら、「集まった状態」は、崩壊してしまうから、何が何でも、強さだけは、維持をしようとする。
そんな「集まり」に、なってしまっている。
前から言っているように、アメリカの「アイデンティティポリティクス」というものは、国民に反戦運動や、反政府運動をさせず、国内の反目だけに集中させるために、権力側によって、長い時間をかけて、仕組まれたものである。
非常にわかりやすくいえば、「分断支配のための最適の方法」、である。
これが「いちばん効く」ということは、いろんな分析や実践の結果なのであろう。
そして、見事にそれにはまったのが、在特会を巡る攻防とか、LGBTの権利を巡る最近の雑誌休刊騒動とか、沖縄を巡る分断、その他もろもろの現象だろうと、私は思っている。
どれもこれも、「分断支配」への道を塗り固めるために、着実に、効果が出ている。
争っているどちらの勢力も、結果的には、分断支配を助けているのである。
善玉と悪玉という「わかりやすい評価」は、21世紀には、もう、あまり通用しなくなった。

安倍は、本当は、誰に何に仕えているのか

安倍晋三は、2年前の9月に、クリントンだけに会いにアメリカへ行き、公開会談をやった。
一国の首相が、アメリカの大統領選挙の終盤になって、投票日の2ヶ月も前の時点で、なぜか、片方の候補者だけに、媚びを売りに行って、「あっちの人より、アナタを支持します」という意思表明をした、ということである。
普通に考えたら、有り得ない、非常識な話である。
そして、これが何を意味するのか、わからない人は、かなり、気の毒な感じである。
日本のリベラルが憎み蔑む「安倍晋三」という政治家は、本当は、「オバマとクリントンが代表・代弁する勢力」に仕える、日本支社の社長、という位置付けだったのである。
だから、前から言っているように、打倒安倍を掲げる人が、「クリントン的なものや、彼女が代表・代弁している勢力」を、否定しないというのは、有り得ない話なのである。
オバマだって、同じだよ。そしてあの人はまあ、「戦争依存症」とか、「サイコパスの殺人鬼」という評価が、最も妥当であろう。

dis-disconnect

Stronger Togetherに代わる、「新しい運動の指針」というものが、求められるとしたら、それはたぶん、
dis-disconnect each other
ではないかと、そういう気がするのである。