まともな知識人の態度って

私は、平川克美も、内田樹も、言っていることが、100%正しいとは、思わないが、「まともな知識人」だというふうには、思っている。
そして、「まともな知識人」というのは、こういうものだと思っておけば、だいたい、マチガイではないのではないか、と思っている。
…だから、「そうじゃない人」は、「自称」とか、「なんちゃって」であるということで、いいと思うんだよね。
なんでもそうだが、「お手本」というものは、必要で、そしてお手本がなくなるとか、もともとお手本がないようなところでは、困ったことに、なっていくわけよ。
嘘をつき続ける人間と、威張り続ける人間は、感情の劣化という点で共通している。どちらも、自己愛過剰のため他者に対する想像力が著しく欠如している。
非常によくわかる。
「感情の劣化」
「自己愛過剰のため他者に対する想像力が著しく欠如している」
ものすごくよくわかるわー。
そういう人が、いるからね。
「あのー、こういう人がいるんですが、これに当てはまるでしょうか?」と、平川さんに、聞いてみたいような気もしてくるよ。
「読者の集合的、長期的な判定は間違わないと考えています」というのは、「社会が判断する」という考えかたと、似ている。

個人的には、内田樹には、いろいろと、疑問はあるよ。
が、↑のように考え、それを実行しているという部分で、正気の知識人であるということは、言えると思う。
というか、「本物の知識人」が、チヤホヤされたいためだけに、わざわざ、格下の相手ばかりの中にやってきて、威張り散らすとか、暴言を吐きまくるとか、そういうことは、ないわけ。
「本物」だったら、そんなことをしなくたって、どこへ行っても、それなりにチヤホヤはされるから。
だから、そういう人がいたら、それはやっぱり、「自称」とか、「なんちゃって」であるということで、「草野球しかできないんだな」「もう、普通の球場では、投げさせてもらえなくなったんだな」という理解でもって、気の毒に思いつつ、みんなで、なま温かく無視してあげるということで、いいんじゃないかと、思うんだよね。

「知識の量」は、最終的には問題ではない

もうひとつ言えば、「知識人」というのは、最終的には、知識の多寡が問題なのではないと、思ったんだよね。
知識というのは、究極的には、「知っている人を知っていればいい」という、そういうものであって、「自分」が、全部を網羅している必要などは、ないのである。
さらに、「覚えた」からといって、それを、うまく組み合わせることができないとか、生かせなければ、「知っている意味」などは、ないではないか。
知識の量が多いから、知識人、というわけでは、ないし、そういう人が、他人の役に立つとも、限らないのである。
だから、「圧倒的知識量を誇る自分は、優遇されるべき」とか、そういう人は、そもそもの考え方が、間違っていると、思うわけ。
持ってても、正しく使えないとか、世の中のために役立てられないなら、その「知識」は、あってもなくても同じだよ。
そうでしょう。