
まともな知識人の態度って
私は、平川克美も、内田樹も、言っていることが、100%正しいとは、思わないが、「まともな知識人」だというふうには、思っている。そして、「まともな知識人」というのは、こういうものだと思っておけば、だいたい、マチガイではないのではないか、と思っている。
…だから、「そうじゃない人」は、「自称」とか、「なんちゃって」であるということで、いいと思うんだよね。
なんでもそうだが、「お手本」というものは、必要で、そしてお手本がなくなるとか、もともとお手本がないようなところでは、困ったことに、なっていくわけよ。
ひとは、折に触れて、怒ったり、悲しんだり、笑ったりする。感情とはそうしたものだろう。しかし、威張っている人間は、常に威張り続けている。感情ではなく、個性である。へりくだりながらでさえ、威張れるのである。
— 平川克美 (@hirakawamaru) 2018年9月24日
嘘をつき続ける人間と、威張り続ける人間は、感情の劣化という点で共通している。どちらも、自己愛過剰のため他者に対する想像力が著しく欠如している。
— 平川克美 (@hirakawamaru) 2018年9月24日
嘘をつき続ける人間と、威張り続ける人間は、感情の劣化という点で共通している。どちらも、自己愛過剰のため他者に対する想像力が著しく欠如している。
非常によくわかる。「感情の劣化」
「自己愛過剰のため他者に対する想像力が著しく欠如している」
ものすごくよくわかるわー。
そういう人が、いるからね。
「あのー、こういう人がいるんですが、これに当てはまるでしょうか?」と、平川さんに、聞いてみたいような気もしてくるよ。
僕は論争ということをしません。理由は簡単で、僕が間違っているいると思ったら反論すべきではない(当然ですよね)。僕が正しいと思えた場合、それが理解できないくらいに知性が不調な人は僕の反論をたぶん理解できない。時間のだから無駄です。
— 内田樹 (@levinassien) 2018年9月21日
それに論争が始まってから相手を論破する目的で書かれた文章は論争のきっかけになった文章よりだいたい感情的で非論理的なものです。論争はすればするほど品下る。「論争するにつれて次第に賢明かつ上品になった人」を僕は見たことがありません。
— 内田樹 (@levinassien) 2018年9月21日
「読者の集合的、長期的な判定は間違わないと考えています」というのは、「社会が判断する」という考えかたと、似ている。論争を好む人は「読者たちは論敵を彼らの目の前で完膚なきまでにマウンテンィグしてみせないとどちらが正しいかわからないほど愚鈍だ」と思っているからそうするのです。読者に理非の判定を委ねる気がない。僕は読者の集合的、長期的な判定は間違わないと考えています。
— 内田樹 (@levinassien) 2018年9月21日
個人的には、内田樹には、いろいろと、疑問はあるよ。
が、↑のように考え、それを実行しているという部分で、正気の知識人であるということは、言えると思う。
というか、「本物の知識人」が、チヤホヤされたいためだけに、わざわざ、格下の相手ばかりの中にやってきて、威張り散らすとか、暴言を吐きまくるとか、そういうことは、ないわけ。
「本物」だったら、そんなことをしなくたって、どこへ行っても、それなりにチヤホヤはされるから。
だから、そういう人がいたら、それはやっぱり、「自称」とか、「なんちゃって」であるということで、「草野球しかできないんだな」「もう、普通の球場では、投げさせてもらえなくなったんだな」という理解でもって、気の毒に思いつつ、みんなで、なま温かく無視してあげるということで、いいんじゃないかと、思うんだよね。
「知識の量」は、最終的には問題ではない
もうひとつ言えば、「知識人」というのは、最終的には、知識の多寡が問題なのではないと、思ったんだよね。知識というのは、究極的には、「知っている人を知っていればいい」という、そういうものであって、「自分」が、全部を網羅している必要などは、ないのである。
さらに、「覚えた」からといって、それを、うまく組み合わせることができないとか、生かせなければ、「知っている意味」などは、ないではないか。
知識の量が多いから、知識人、というわけでは、ないし、そういう人が、他人の役に立つとも、限らないのである。
だから、「圧倒的知識量を誇る自分は、優遇されるべき」とか、そういう人は、そもそもの考え方が、間違っていると、思うわけ。
持ってても、正しく使えないとか、世の中のために役立てられないなら、その「知識」は、あってもなくても同じだよ。
そうでしょう。