「志位ツイート」の何が問題なのか

最近、「志位ツイート」なるものが、物議を醸さないことが問題になっているらしい。
えっ別に、普通のことじゃないか。
あっ、いけない、「その普通」は、「日本の外では普通」という、意味だった。
私は、5年くらいの間、日本語のウェブよりも、英語のウェブのほうに、親しんでいたので、感覚が違ってしまっていた。

「子分が勝手にやっただけ」

志位和夫の勇気ある渾身のツイートに拍手 - 昭和天皇の戦争責任 : 世に倦む日日
私を含めて多くの者は、嘗ては、昭和天皇というのは軍部に操られた木偶人形だと考えていたし、その神輿の表象を補強するのが、天皇には国家の政策決定の権限はないとか、実権はなく介入できないとかの法的なタテマエ論だった。それが全くの作り話であり、壮絶な神話であることを察知したのは、私の場合、最近のことで、吉田裕や豊下楢彦の昭和天皇の終戦史の研究を読んで啓発されたことが契機だった。何もかもあの男の主導だったのだ。有効な一撃に拘ってずるずる講和を引き延ばしたのもあの男だ。米国に占領させて国体護持を図ったのもあの男だ。

そうして、ようやく、終戦前に首相がコロコロ替わっている事情も理解した。意味が分かった。権力が空洞であるようで、実際には空洞ではなく、中心に権力を持って差配している男がいたのだ。ああしろ、こうしろと。志位和夫の簡潔なツイートは一言残らず正しい。よく言い切ってくれたと思う。中国への侵略戦争(陸軍)もこの男だし、米国との無謀な開戦(海軍)もこの男だ。この男の意思決定だ。東条英機を買ったのはこの男で、石井部隊の細菌戦も、中国でのアヘン密売も、おそらく耳に入れていただろう。軍の情報は必ず上に上がる。外には漏れないが、上には真っ直ぐ上がる。統帥と機密というのはそういうものだ。
まあちょっと、最近どっかで聞いた話、「ワタシは何もしていません、子分が勝手にやっているだけ」みたいな。
それはともかく、今では、「死語」になってしまったが、昔は、「直隷」という言葉があり、これこそが、↑で言われていることを、そのまま示しているのである。
…それにしても、私は、英語のウェブでは、あらゆる外国人から、「ヒロヒトはヒトラーと同じ」というふうに、ごく普通に、言われたし、どこの国の人でも、トージョーだけが悪いヤツで、ヒロヒトはいい人だったなんて言っている外国人は、一人もいないということは、これは、断言できる。
だから…なんというのかな、「内と外の温度差」には、驚きっぱなしというか、これはかなり、しんどいことなので、実は「どっちか」に絞ったほうが、ラクなのである。
「日本語の世界」だけにいるか、「英語の世界」だけにいるか、どっちかに。
がまあ、この「しんどさ」というものは、しんどいだけに、「何か」意味があるのではないか、1ミリくらいは、何かの役に立つのではないか、私は、少しは、そう思っているし、そう信じてきた。

とっくに、「映画」になっとるやん

昭和天皇というのは、「世界レベル」では、アンタッチャブルでもなんでもない。
2005年の映画(ロシア制作)で、「太陽 (映画) - Wikipedia」という映画があって、イッセー尾形が、演じている。
皇后は、桃井かおりである。
だから、外国人は、イッセー尾形と桃井かおりが演じる「昭和天皇夫妻」というのを、普通の感覚で、とらえている。
神聖視などは、しているわけがない。

一歩日本を出れば、誰も「問題」にはしていない

昭和天皇の戦争責任問題というのは、外国人は、誰も「問題」にはしていない。
そんなものは、「ある」に決まっているんだから、どうして問題なんだ、と。
裁かれなかったのは、戦勝国の「都合」というだけの話。
「戦争責任」という言葉に、ピリピリしているのは、日本国内だけ。
本人は、とっくに鬼籍に入っているし、もう、「国内」でも、もっとフランクに、話をしたらいいのではないか、という気がするのは、私だけだろうか。
私は、保阪正康が、「昭和天皇には戦争責任はなかった」ということを言うためだけに書いた、渾身の一冊を、読んだことがあるが、読後に残ったものは、「ああ、なんか、お疲れさま」みたいな。
まあ、一歩日本を出れば、誰にも通用しないような「結論」を導くために、どうしてそんなに、がんばるのかな、と思うと、ちょっと、悲しい感じは、してしまうのだった。
保阪には、「あの戦争は何だったのか」のような、手軽に読めるわりには、世の中のためになるような著作も、ある、だから、そういうことだけをやっていれば、いいのにな、とは思うけれども。