「皆腹・稲原」の呼び名の伝説。
二俣城の落城に纏わるお話です。
二俣城駐車場あり。トイレあり。自販機なし。
1572年
破竹の勢いの武田軍は
付近の城を次々に落城させ
二俣城に攻め込みます。
徳川軍には
孤立した二俣城・浜松城の兵だけでの戦となります。
家康は
二俣城を守る家臣・中根正照に
人質の交換をさせ二俣城を明け渡させるのでした。
しかし
城内の武士の中には
城を明け渡すことに抵抗するものもいました。
彼らは二俣城の北曲輪で
腹を切り死んでしまいます。
「皆腹を切った」その場所はやがて
「皆腹」と呼ばれ やがて
「稲原」と呼び変えられていったということです。
その北曲輪/稲原の場所が
この「旭ヶ丘神社」のある場所。
その後すぐに
家康により奪還された二俣城。
抵抗し切腹した武士の判断は非常にもったいないものでした。
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