始まり
杏樹ちゃん、と紹介された女性は私を一瞥し、ふたたびテレビに視線を戻しました。
当時でもめずらしい脱色しきった金髪の、ですがその髪色とは相容れない清潔な顔立ちの美女でした。
突然の美女との対面に緊張しつつも、私は頭を下げました。
「よろしくお願いします」
頭は下げていましたが、視線は薄地のキャミソールから伸びる杏樹さんの白いふとももに釘付けになっていました。
すこし顔の角度を変えれば下着が見えるんじゃないか、緊張にはそんな期待も含まれていたかもしれません。
私はそれを気取られないように、いたって普通の表情を意識していました。
杏樹さんは気怠そうにタバコを一服し、ゆるゆると煙を吐きだしました。
そして、それだけでした。
無視、でした。
それは私の視線だけでなく、存在すら見えていないほど完璧なものでした。
私の周りの空気が一瞬で凍りましたが、杏樹さんはそれを気に留める様子もなくテレビを見続けていました。
見かねた内田さんが笑顔で割って入りました。
「まあまあ杏ちゃん、彼、初めてだから、よろしくね。君、あとはそこで座って見てて。杏ちゃん、それ吸ったらラスト1本ね」
内田さんは手短に言うと、私の肩をポンポンと叩き、目で事務スペースの椅子を指しました。
「はい」
時間にして5秒くらいのことでしたが、なぜか打ちのめされた気分でした。
私は椅子に腰をおろしました。
風俗。
やっていけるのだろうか。
考えてみれば、数時間前の自分が想像もしていなかった場所に今いるのです。
それを自覚した途端、せりあがってくる緊張と不安を抑えこみ、真顔を保つのに必死でした。
「ま、気にしないでいいから。根は良い子だからさ」
内田さんのフォローも私には届いていなかったと思います。
「とりあえずこれから最後のお客さん案内するから、見てて」
言うと内田さんは、奥のカーテンを開け杏樹さんに声をかけました。
「杏ちゃん、ラストいこうか」
すこし間があって、暗がりに杏樹さんがやってきました。
私はひとり座っているのも気まずく、なんとなく立ち上がり背筋を正しました。
杏樹さんは無表情で、端正な顔立ちなだけに冷たく感じられました。
「あのお客さんね」
内田さんがマジックミラーの向こうで座っているお客さんのひとりを指しました。
私もその方向を向きました。
40代前半くらいの土建業風のお客さんでした。
その横には同じ格好をした、おそらく当時の私と同じような年齢の若者が座っていました。
「・・・はい」
杏樹さんの小さい返事が聞こえました。
「じゃあ君、見ててね。明日からやってもらうから。杏ちゃん、行こう」
内田さんと杏樹さんはカーテンの奥に消えると、私は事務所に残されました。
1回、ゆっくりと深呼吸をしました。
するとマジックミラーの向こうに内田さんがあらわれ、
「ではお客様、たいへんお待たせしました。ご案内いたします」
と、お客さんに声をかけました。
お客さんは、やはり同僚だったのでしょう、隣の若者に、
「じゃ、いってくるからよ」
と満面の笑みで片手をあげて言いました。
お客さんは内田さんに連れられ、マジックミラーから消えました。
するとカーテンの奥から内田さんの声、合間にお客さんの「はい」という声、どうやらお店の禁止事項を読み上げているようです。
「いいですか?」
やや大きめの声で内田さんの声が聞こえました。
「はーい!」
杏樹さんの声でした。
ですがそれは、先程とは別人の声でした。
「それではお待たせしました、杏樹ちゃんです。ごゆっくりどうぞ」
お客さんの「いや、待ったよ」という声と、嬉しそうな杏樹さんの声が聞こえ、それはカーテンのさらに奥へと消えていきました。
カーテンが開かれ、内田さんが顔をだしました。
「どう、わかった?」
「はあ、まあ・・・」
「オッケ。じゃあ、とりあえず今日はこれで休んでいいから。明日からよろしく」
休んでいいの一言で肩から力が抜けました。誰もいなかったら、床にそのまま座り込みたいほどの脱力感がありました。
「すみません、ありがとうございます」
「いや、いいよ。長旅で疲れてるだろうし、明日から頑張ってもらわなきゃいけないから。あと他の子も明日紹介するから」
「はい、頑張りますのでよろしくお願いします」
「うん」
「寝るところって、寮かなにかですか?」
「寮もあるけどね、ベッドならここに沢山あるから」
「ああ・・・」
店内で寝泊りするということか、まあいい。とにかく今は横になりたい。
そんな気持ちを知らずか、それとも知っててあえて触れないのか、内田さんは続けました。
「じゃあ、特別に6番ルーム使っていいよ。あそこはエアコンの効きもいいから。4番なんてこの時期クソ暑いからね」
内田さんは片手で扇ぐ仕草をして顔をしかめました。
何番でもいいので案内して下さい。
私は、そう念じながら相槌をうちました。
「あ、でも今5番に杏ちゃん入っているから、興奮してシコシコしちゃダメだよ」
嬉しそうに内田さんは私に言いましたが、その意を解することもできず、すでに杏樹さんの印象すら思い出すこともできない状態でした。
「ついて来て」
私は内田さんに手招きされ、カーテンの奥へ連れられていきました。
フロアは薄い暖色系の照明で、有線放送から流れるJ-POPがひとまわり大きくなりました。
狭い通路を行くと、中央に位置するであろう部屋を指し、内田さんは声をださずに「ここ」といいました。
ドアといってもパーテーション、つまり薄手の板ですが、内田さんはそこを開くと私にウィンクをして事務所に戻っていきました。
やっと眠れる、そう思いながらも部屋のなかを覗きました。
私は力なく苦笑しました。
2畳ほどのスペースに、その半分を占めるビニールのマットが一段高く敷いてあるだけの簡素な部屋でした。
あとはその部屋の隅にに狭苦しく置いてあるカラーボックスがひとつ、下段には事務所と同じようにティッシュが詰めこんでありました。
どうでもいいという気分に支配され、私はビニールマットに倒れこみました。
肌にひんやりとして気持ちいいのですが、どこか粘つくような違和感がありました。
おそらくは汗、つまりこの部屋でお客さんと女の子がプレイしたときの熱気や匂いが染み込んでいるのであろうことは、簡単に理解できました。
不快感はありましたが、急激な眠気に身体が動きませんでした。
とりあえず、明日から。
そう自分に言い聞かせるのが精一杯でした。
すべての感覚が遮断される瞬間をすぐそこに感じながら、私は目を閉じました。
するとかすかに、有線放送の向こうから女性の喘ぎ声が聞こえてきました。
隣の部屋の杏樹さんでした。
私の脳裏に、杏樹さんの白いふとももがはっきりと浮かんできました。
私はうっすらとですが目を開き、ぼんやり天井を眺めました。
目を凝らすと、天井には鏡が貼り付けてあり、ビニールマットに横たわる自分の姿がそのまま映されていました。
その姿に私は舌打ちをし、ふたたび目を閉じました。