熱波に水飲まぬ人々のわけ
心に残ったことだけ書きおく宮崎さんは四歳のときに父を亡くされた。亡くなったのはビルマ戦線だ。お母様が現地に「遺骨収拾?」に行きたいというので、それを応援しながらビルマの出来事を学んだという。私はその年二回の供養会に導師として参加してもう40年になる。その頃は遺族ではなく戦友の方が二百人以上も参加して供養会をしていた。そして毎月清掃に来ておられた。彼女は、その清掃に来た老齢の戦友の方々に、熱い熱い夏だったのでお水を差し上げようとしたところ、彼等は決して飲まなかったという。それはなぜか。読者自身で考えてほしい。私の資料 2021/7/11戦争を語る師匠である宮崎さんを迎えて将来の平和の旗手である和田さんに誘われて学生と会う資料 私は戦争について何も知らない。それが最も罪なことだ。 当然この戦争という術語は貧困や差別に置き換えられる。それでも自殺者の母が「人殺しよりは良かったかも」と言った。 ㈠ 何故、お寺にパゴダがあるのか。 ①「今も山河慟哭する」と書いてある。不遜な問いだか遺族ならこうは書かないだろう。戦友ならではと勝手に思っている。 ②先々代41世は「御仏の瞳は慈悲に輝きて罪と悩みの子ら微笑む」と書き先代が其れを石碑にした。これは希有なことだ。それが寺であり、仏教創始者の釈迦ブッタの一族は皆殺しにされていて、その様な情況から生まれたのが仏教だと師匠に教えられて育った。(資料、仏教入門1&2、因みに空海の実家は奴隷管理官吏だった。独白「世界の学者は何故事実を隠蔽するのか。茶坊主か」) ③藤井ビルマ会会長に褒められた私の祭文。戦友よ、敵よ、住民よ、敵味方なく和解して、今は平安にあられよ、、、というような内容に賛辞されたと勝手に思っている。しかし、私の言葉箪笥の「戦争」という引き出しには未だ、戦争らしいものは無かった。有ったのは、零戦の模型や戦艦大和技術的優位性や、丸木さんの広島の惨劇の絵だった。 ㈡ 私の理論的進歩 ①日本国憲法前文に感動する ②ブッダ最古のお経は反戦そのものだった。 何故、仏教は戦争を止められなかったのか ㈢ 真の平和への道 戦後50年頃から、アジア地域の戦地を訪問し体験を聞く活動と、ある意味でのお詫びの貧困解消ボランティアに取り組む。 訪問地、広島、長崎、水俣、知覧、沖縄、三机湾、韓国、成都、タイ、ビルマ、ベトナム 救援活動、四川、タイ、ビルマ難民キャンプ16年継続中 ①当時小四生の体験談の衝撃。 この証言会がなければ僕の活動はなかったし、活動がなければ何も無かっただろう。経典理解も別の方向へと行っていただろう。 これが平和活動への起爆剤起点となる。(因みに、貧困解消活動の起点は大学時代のセツルメントだ)。七人テーブルで間近に聞く。各人の母が子を探しに来るが、皆容姿が爛れていて判明せず「何々ちゃーん」と呼ぶが、再開して直ぐに死んでいく。友人を置き去りにする話しなど。初めて戦争に近づいた感じ。どうも人間は親しくなるとその人の事が他人事でなくなる。いくら良い話を聞いても他人事は他人事だ。 余談、戦争回避の信念=友人になれば戦争しない。実際、今回のビルマ軍隊暴力事件でビルマ在住の二人の友人とラインで交信して数日から数ヶ月不眠と過呼吸と心臓痛が起こった。 沖縄戦の証言は「真の仏教と日本国憲法の理想」末尾に集録。テレビで見る悲惨とはまた別の痛みが私の胎内に住居する体験。 韓国「秀吉以前のものは一つもない」中国「この辺り一帯は全部焼かれた。祖父は殺された」 ②ビルマ会での証言。遺骨収拾に行って「おーい、中村くーん。帰って来たぞー」と叫ぶ話し。 参照「四国遍路体験集その一56頁」 ③タイビルマ現地を訪問での見聞 2005/タイのナムケン上陸。 2008/ビルマ内戦?難民キャンプ。入植者と間違われる。メーソットで日本語ができる老人「元日本兵が文具を持ってくる」 2012/孤児院救援開始。友人Ivy「私の祖父母は殺された」「by whome」「by Japanese"」。出会ってから六年目にして初めて暴露された。 2019/パガンで日本人墓で祈念する。とうとうここまで来た。 ④2021/2/ビルマ軍隊暴力事件。アイビーと在面友人から情況報告が来る。胸が痛んで寝られない。3月ビルマ人YUさんの説明会で「少数民族との内戦は、内戦ではなくビルマ軍人の利権拡張の為の略奪が原因」かと思い始める。 私の戦争体験 1995年大晦日アジア太平洋戦争敗戦50周忌に「仏教徒の戦争責任」戦争懺悔の不殺生平和万灯会~現在 1999年ヒロシマ平和の灯を四国霊場会で遍路し石手寺結願。各地で被曝証言会 2000年1月阪神震災被災者県内在住の「希望の灯り」。7月長崎平和公園にて「長崎を最後の被爆地とする誓いの火」を採火 水俣湾に慰霊供養し、「もやい直しの火」。12月ヒロシマの残り火 心に刻むメモリアル行脚 2001年7月1日沖縄平和の礎慰霊と採火(証言) 2001年10/27 アフガン報復戦争に対して「10.27不殺生の祈り」。 2002えひめ丸犠牲者追悼9、11犠牲者追悼と非戦の祈り。 2002年7/1韓国侵略不殺生の祈り(懺悔と追悼非戦の誓い) 2003 3.11イラク戦争とあらゆる戦争暴力に反対する不殺生の祈り80カ寺と 2006年12/14 知覧特攻隊者慰霊不殺生の祈り 2007年6月2日 マレー半島侵略不殺生の祈り 2008年5月7日 ビルマ国境での太平洋戦争犠牲者追悼、ビルマ内戦犠牲者追悼と平和の祈り 2008年10月17日四川省成都にて成都重慶日本軍無差別爆撃犠牲者追悼と反省と平和の祈り 2008年11月佐田岬半島特別潜水艦戦死者9名追悼 2011年 東日本大震災救援追悼 ビルマ慰霊塔・硫黄島慰霊塔供養