clubbiのブログ
  • 17Apr
    • 弘法大正御影供、金澤翔子記念館オープンの画像

      弘法大正御影供、金澤翔子記念館オープン

      弘法大正御影供 お大師さまの命日が最も大事な日であります。なぜならこの日に私たちはお大師さまに会う事が出来るからです。 では弘法大師に会うとはどういうことか。一つは室戸の勤念あるいは石手寺玉の石の再生。もう一つは東寺立体曼荼羅修行あるいは石手寺の皆一緒立体曼荼羅大仏修行と言いましょうか。 我田引水ですが、石手寺は恵まれたお寺だと再確認します。 衛門三郎再生の話は有名ですが、その確信は「生まれかわって善人になる」ということです。善人とは他人を救いたいと願うことです。三郎は自分が行った汚い僧への仕打ちを、自分が旅の遍路人になることで身を持って痛感します。そしてそのような苦悩の人々をなくそうと発心するのです。それはとりもなおさず空海様が室戸でなした発心であり利他行=菩薩行の開始です。そのことが先月お渡しした「四国へんろ体験集 その一」で明確になりました。 そしてその追求をするのが皆一緒大仏蓮台です。福徳授与灌頂祭として毎年十月二十日から一月間行っている修行ですね。金澤翔子記念館オープン 三月21日は皆さんお疲れさまでした。金澤翔子さんの奉納揮毫を記念して展示館を開設しました。 お願いして特別に、再生、みんないっしょ、空海さまなどを新しく書いていただきました。合せて展示しています。どうぞ来てください。 なぜ金澤翔子に書いて頂いたかというと、これも縁ですが、一番には彼女の頑張る姿ががお遍路さんの頑張る姿に重なったからです。いつも説明しているように遍路の醍醐味は癒しと再生です。ハンディキャップを克服して七転び八起き。より大きく羽ばたきたいという希望を膨らませるものです。奇しくも今回の揮毫は「飛翔」でした。コロナ下に飛翔。困難を克服して飛翔。それは再生です。自分の困難を克服して皆一緒の喜びへと再生し飛翔するのですね。 彼女は東日本震災被災者支援も積極的に行っています。心と環境が啐啄同時でないと物事は成就しませんが、まず心を飛翔させましょう。 私の好きな「どうにかなる」も有ります。くよくよしなくても何とかなるよという意味です。どうしても駄目なときはお寺に駆け込めば良い。お四国遍路に旅に出れば何とかなるよ。暗闇があっても光りを見て、まず心の健康を取り戻しましょうというわけです。 「縁」もあります。縁を大事にする。袖摩り会うも他生の縁? ところで縁とはふちとも読みますね。崖っ縁。がけっぷちですね。土壇場という意味ですね。縁が切れると離れてしまって駄目になる。 若いときは自分の本能や欲望でがっしり生きていたように思いますが、歳取って最近思うことは、生かされているということ。何に生かされているかというと、しがらみですね。親子のしがらみとか、震災救援活動のしがらみとか、ビルマ救援のしがらみとか、悩み相談のしがらみとか、今回作った四国へんろ体験集 その一のしがらみとか、自死者供養のしがらみとかですね。 これはしがらみではなく良縁ですね。本能に生きるのは畜生界。欲望に生きるのは餓鬼界。歳を取り枯れ木に近づいて自然と離欲?してくると善い人間関係が噴射して生きる原動力になる。 昔々日本が貧乏な時代は、「早く大人になっておとうさんおかあさんを楽させたい」と皆が思ったものです。(今は子どもの方が貧困だという新格差時代ですが)。文字通り他人のために生きる意欲を持っていた訳です。その方が生きる活力が沸いたでしょう。加藤登紀子さんが「悲しみや苦しみに根ざしていない生き方は力が湧かない」という節の事を言っていましたが、まさに困難をバネにして生きるという事です。自分の困難しかり、他人の困難しかりです。それが生きる大きな山となる。

  • 16Apr
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      声字実相義

      声字実相義 お大師さまが書かれた書物は多数ですが、その中で是非読んでいただきたいのは「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)で秘密の宝の蔵の鍵という題名です。そしてその謎解きは昨年配布した「理趣釈対照理趣経意訳」です。その哲学的解明が「即身成仏義」とこの「声字実相義」です。 ですから、この声字実相義を理解すれば、弘法大師さまの思想を理解したといっても過言ではないでしょう。ところがこの書は漢文ですし、種々の経典の引用も有りますし、まことに難解です。 たとえば、「帰趣の本は名教にあらざれば立せず。名教の興りは声字にあらざれば成せず。声字分明にして実相顕わる」「五大に皆響きあり。十界に言語を具す。六塵は悉く文字なり。法身は是れ実相なり」。 という具合です。しかし、この数行さえ理解すれば真言仏教の神髄が理解できます。理趣経が理解でき、真言の三密修行が途に付く訳です。その三密修行とは毎年秋の十月二十日から一月間繰り返される恒例の福徳授与灌頂祭にほかなりません。 逆に私はこの秋の大祭を四十年近く続け、それと京都の東寺の立体曼荼羅で修行し、更には皆一緒曼荼羅大仏を完成して、更に三年間を費やして、その結果が先の理趣経意訳となり、此処に声字実相義を書いてみる次第であります。仏法遙かに非ず、心中にして即ち近し これは空海様著「般若心経秘鍵」の有名な文句です。仏の真理は自分の外にあるのではなく、いまここにある自分の思い中にある。いや思うことそのものにある。というのです。 宝石を得たいなら宝石屋さん。高級車なら車屋さんというように、それらは外に求めなければなりません。しかし仏教の真実は外にあるのではなく自分自身の見方、考え方、目論見、願いに求めなければなりません。欲しがり方、欲しがるもの、物の見方。それらを変えることが発見そのものです。宝石を得たい得たいと渇望していた人間が、宝石は意味がないと思う瞬間に宝石は瓦礫になります。そして今まで瓦礫と思っていた、人の痛みを知ることや、皆一緒の喜びが、最上の宝玉となるとき天地がひっくり返るのです。 しかしひっくり返しただけでは駄目です。病気の人間の苦悩は病気のひとにしか分かりません。またオリンピックで金メダルを獲得し人の喜悦はその人にしか分かりません。また努力せずに得た人には努力してその果てに得られる物の恐悦は分かりません。 そのようにこの世の楽しみ、この世の宝物はここかしこに散在しているのに見えるものには見えて、見えないものには見えません。だからこそ空海大師の主著の題名は秘密の宝の蔵の鍵なのです。そしてその宝は私たちの周りに充満していることを声字実相義はこう書きます。五大に皆響きあり 五大とは地水火風空です。大地、水、火炎、風、宇宙の容れもの。あるいは、固いもの、流れるもの、炎の活力、大気の霊気、無数に種々雑多なものを有無空間です。取り敢えず、森羅万象です。万能なる自然であり絶え間ない生命の躍動です。その森羅万象と生き物たちが、いずれもすべてが響いているというのです。単に声を出したりびりびり言っているのではなく互いに響き合うという意味合いでしょうか。 そうだとすると、それは縁と言うべきでしょうか。 縁です。縁とは互いがお互いに因となり果となって主となり従となり作用反作用することです。どちらも主役であり、とちらもそれに従います。十界に言語を具す 空海大師はこの森羅万象、生きるもの全ての息吹が、そのひとつひとつが言葉を持っていると言います。響きと言語はどの洋に違うのでしょう。何か音がした。というのと何々と言った。何か知らんの音と、何々というメッセージの違いでしょうか。あらゆるものがメッセージを放っているということでしょう。言葉のキャッチボールと言います。 「おはようございます」と言われて「おはようございます」と答える。「ちょっと手伝って」と言われて「うん、いいよ」と答える。呼応です。あうんの呼吸です。そのとき順応もあれば反逆もあります。親愛と対立ですね。それは放ち手と受け手の問題であり、相性もありますし、器量もあります。良い投手は取りやすい球を投げます。良い捕手は悪投も捕球します。 では、この十界を具すとはどういう意味でしょう。 十界とは仏界、菩薩界、声聞界、縁覚界、地獄界、餓鬼界、畜生界、阿修羅界、人間界、天界の十の種類の世界というか界隈です。つまり仏のように受け取る捕手も居れば、菩薩のように思いやり深く受け取る捕手もいるし、愛情の球を投げる投手もいるし、何事も不満な餓鬼種も居るし、その人その人で様々で、十人十色の投手であり十人十色の受け取り方をする捕手だよというのです。 六大に皆響きあり。つまり森羅万象や生き物は同じ響きを発している。ところがその同じ響きが餓鬼には不満に聞こえ、畜生には本能をくすぐり、菩薩には救難信号に聞こえ、仏には真理として響いてくるというのです。 ですから私が餓鬼の心しか持ち合わせていなければ、どんな豪華な料理も粗末にしか見えませんし、もしも私が菩薩の心を持っているならご馳走は今晩の食事に窮して居るこども達への絶好の贈り物として輝くのです。六塵は悉く文字なり こうしてあらゆる響きはメッセージとなり文字として現れているということになります。縁とは異なる生き物同士が行う心の交流です。 では私たちは地獄や餓鬼や畜生や阿修羅の心を改めて、菩薩や仏の善い心を持てば善いということでしょうか。ではもしも私がその善心を持ったとします。でも、世間には善い投手も居れば、悪投手も依然として居るわけです。盗賊も居るし、悪党も居ます。いわんや現在も無抵抗の民主主義を目指す人々を殺す羅刹のような軍隊も居る訳です。 その前に、此処で言われている六塵とは何でしょう。六塵とは色声香味触法です。見えるもの、聞こえるもの、香るもの、味わうもの、触れるもの、考えるものです。私に入っている情報です。その情報を発する相手が悪党であれば悪党を殺せば善いということでしょうか。これは難題です。自己防衛の問題にもなります。防衛戦争なら善いということになるのでしょうか。 釈迦仏教なら六塵とは塵と表しているように取るに足らないもの、相手にしなくていいものとして斥けられます。見るな聞くな触るなです。無です。無心です。でも無心から出発して釈迦も苦悩の人々を救いましたし、お大師さまは、その塵芥こそ仏の文字であると説きます。法身は是れ実相なり ここで私ども凡夫はただただそれらの塵芥は仏の説教だと聞くしかないのです。なぜなら私は修行途上の未熟者だからです。 仏様にとってはあらゆる生き物は、悪党も含めて修行途上の、将来は必ずほとけになる生命体です。縁の中の一縷です。 しかしこれは菩薩に身を置くもののみが得られる境地に違いありません。修行は必ず完成するから全ては仏のその御身そのものなのです。六塵の彼方にあるのは真実の姿そのものだというのですから。

  • 13Apr
    • それにしてもこの世の苦しみの堪え難きかな。

      どんな因果で私たちはこのような苦しみを課せられるのか。煩悩即菩提苦しみの対極にそれ以上の楽しみありやない私は断言するそれはない。ないということは生きていることそのものがそれなのだ。

    • 永遠とは死ぬときに有る在る或るそれとも別の何かの画像

      永遠とは死ぬときに有る在る或るそれとも別の何か

      生き続けると言うこと今お念仏今死んで永遠の生を得ると故人は考えたが私は想は思えないのだあるから永遠を他方に探す永遠とは今死ぬことと生き続けることの両極端の何方かを選べばそれで事足りぬるをぞおかしけれ。犯す。丘す。冒す。侵す。置かす。おかす。置くを過ぐ。つまり何もしないで座して貪りぬ。けり。ける。けろ。や。居った髷。

    • 小泉義之さんは言う。蓋然的な推量を疑えか。神のみが考察の対象となる

      憂き世と浮世と世間と真実世界。真実世界とはこの世が阿呆だと言っているに過ぎない。では真に真実とは有るのか。確かに判決で事実を確認したので事実に相違ないとぞのたまいき。それは有る。しかし、そんなものはどうでもいい。のだ。生きている意味に照らせばそんなものは取るに足らないことなのだ。何故生きているのか。なぜ死にたくないのか。だから、生き延びてきたし、無くならない。あるとは有るとは在るとは、なにかが見えること。何かを求めること。何かが催促すること。これだ。これ以外は、縁起とか、空とか、食うだ。蓋然的とは確定できない何かを差し当たって、取り敢えず想定してその上を歩くこと。薄氷を踏むことだ。蓋然的に生きるつまり確率的に生きる。多々ある選択肢のなかで、どれか突飛もないものを選んでみるからひょとすると生き残る。やはり生き残るとは蓋然性の最も過少なものを選ぶということそうすると保身的な中村などの忖度組。やりたいことをやめて持続を選ぶ。低い山を延々と伸べる。それとも峻厳な山を構築する。たれもが選ばなかった道?未知?満ち?に駆ける。走ってけだ。確立の低いものを選ぶように私たちは時限爆弾を背負わされたのだ。

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      などか どこかに うれいあるを あやしむ とぞ あはれなりぬむ

      これは中東かイタリア。イタリアの北はフランスでその北はゲルマンとかけるんだ。憂いとは何だ何かを積み残している不安。先へ行けない後ずさり。それは蟻地獄。そういえば砂の女というのがあったなあ。あべこうぼう。 東京府で生まれ、満洲で少年期を過ごす。高校時代からリルケとハイデッガーに傾倒していたが、戦後の復興期にさまざまな芸術運動に積極的に参加し、ルポルタージュの方法を身につけるなど作品の幅を広げ、三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。あべぼうこうかあ。女のありじごくに沈んでいくおとこのありさまが滑稽でたのもしくあった。つまり、性。サガ。性からはだれも脱出できないという筋書きだ。然し、憂いとは、一時に二つを思う事。思うではなく想うだ。思うは過去とか今であり、想うは将来だ。未来だ。未来を想うとは可塑性に駆けるという事。×。掛ける。書ける。懸ける。賭博だ。試行錯誤だ。トライだ。試験だ。挑戦だ。機会だ。チャンスだ。リスクだ。リスクテイキングだ。ということは永遠か。死にたくないという事。死にたくはない。しかし、生き続けるのも厄介だ。四季に任せようとぞこけんはのたまいき。川の流れは絶えずして而も元の水に在らず。 月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり。   舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらえて老を迎うる者は、   日々旅にして旅を栖(すみか)とす。ええいかものちょうめいとそのむこうのないようである道あしるかもしれない長命?町名?松山市どいだようごかもがわやまごえかわごえはしんだ

    • 声字実相義を読む

      「帰趣の本は名教にあらざれば立せず。名教の興りは声字にあらざれば成せず。声字分明にして実相顕わる」「五大に皆響きあり。十界に言語を具す。六塵は悉く文字なり。法身は是れ実相なり」音楽を聴いている。体を揺らして多少音階がずれるにんも在れば、姿勢を正してきちんと楽譜を辿るひともいる。巧く弾こうとせねば楽しく体がスウィングでも金メダルを意識すると体が硬直。でもノーミスで高得点さて得点を気にするのはおあずけしそうか。此処は我慢して後で高得点。それよりは今を楽しんであとはのとなれやまとなでしこ生き残るためには思慮深くなくてはならない。楽しむためには思索や企画や悪巧みを捨てねばならない。二者択一やはりなだらかでながいやまか、聳え立つ峰か今日、ドクトルジバコを流していた。ラーラはららのテーマともなった女性。どうも画中、ラーラは我が娘のために自分を犠牲にする。というより我が子を自分より優先するのだ。ジバコ男は自分より愛する女を優先する。女は娘を優先する。これは遺伝子か。思慮深いことか。彼も彼女も彼等はどうように暫く躊躇う。躊躇うとは溜め嫌う。いちおう思慮に走るのだ。思慮とは策略。陰謀。お預けだ。おあずけとは人間が犬の調教で最初に行う馬鹿げたトリックだ。自分と犬の両方を値踏みに掛ける。当然、答えは最初から決まっている。自分が勝つために一時他人のふりをする。他人の振りとは世間体を煙に巻く事。自分を消し去ってやがて保身に帰る。しかし何を保身するのか。彼女か。我が子か。ロシア革命。過酷な時代にはもろもろのものが露呈した。しかし平和な時代には全てかかくれんぼ。おとうさん。僕の帽子は再犯帽子

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      何故生きてんだろうね、尾崎の言うようにしたいことのため、出会いのお片付け

      アーア、今日なんかお参りがだれも来ないよ。県職員が遊びまくってコロナが毎日三十人出たよ。親分がかねはらって子分を逃がしたよみたいな座頭一が嫌うセリフよね。さて、なんで生きているのか。そんなことは15の夜で終わった筈なのに63の夜にアタックド。昔なら映像がない世紀だから、ミャンマー人とお祈りしたとか、東日本震災の福島第一原発事故賠償訴訟勃発とか、翔子さんとガッツしたよとか、色々な人生とか考えたよとか、えひめ丸と一緒に冷水に沈んでみたよとか、阪神震災の長田で浅野と読経していっしょに焼けてみようとしたとか、言葉で索引して引起して思い出に浸るところが、映像が一気に一挙に大挙して思い出で私を圧倒する。で、今年を既に振り返ると、自分が生きているのか、無理矢理生かされているというか、課題を押しつけられているのかsmで言えばエムを生きているということになるのか。そういえば、おまえはもっと自己主張しろやとフィーメイルに罵倒されたことを思い出す。気骨のない人間だった私は今も被害者を生きているのか。というわけで、打って出なければどんどん輪廻に巻き込まれるし、打って出るともっともっと課題が増えて雪だるまのように肥満だなあ。あれっ。

  • 11Apr
    • 愛媛県職員約30人が送別会 県は「ルール順守」と説明4/8NHKの画像

      愛媛県職員約30人が送別会 県は「ルール順守」と説明4/8NHK

       県の市町振興課職員30人前後が参加した送別会が3月24日夜に松山市の道後温泉の旅館で開かれたとの一部報道で発覚。県が調査したところ、20人超の会食が3月23、24の両日で計9件あった。さらに、県内で過去最多の59人の新規感染を記録して松山市の繁華街の飲食店に営業時間短縮を要請する方針を示した25日以降にも7件を確認。参加人数の最多は23日の45人で、24日に38人、26日に33人が参加した送別会があった。送別会の自粛を呼びかける立場の人事課や保健福祉の推進に当たる保健福祉課なども開いていた。 これで職員は知事に守られてまた忖度する。忖度のための知事の策略としか思えないような奇怪な事件。職員はおとがめなし。か。これなら本質的にミャンマーと同じだ。民は殺人されないからましだが、この待遇の違いは何だ。民間ならとっくに潰れている悪態。やはり役人天国はどこの国にもある。民間人よ。みんな、宴会辞めてるよねー。苦しいよねー。若者もこれでどんどん遊ぶでしょ。歯止めなき中村県政。家から出るなとおらぶ誰かはどうする。試食院はしなかったのかねー。県の市町振興課職員30人前後が参加した送別会が3月24日夜に松山市の道後温泉の旅館で開かれたとの一部報道で発覚。県が調査したところ、20人超の会食が3月23、24の両日で計9件あった。さらに、県内で過去最多の59人の新規感染を記録して松山市の繁華街の飲食店に営業時間短縮を要請する方針を示した25日以降にも7件を確認。参加人数の最多は23日の45人で、24日に38人、26日に33人が参加した送別会があった。送別会の自粛を呼びかける立場の人事課や保健福祉の推進に当たる保健福祉課なども開いて県の市町振興課職員30人前後が参加した送別会が3月24日夜に松山市の道後温泉の旅館で開かれたとの一部報道で発覚。県が調査したところ、20人超の会食が3月23、24の両日で計9件あった。さらに、県内で過去最多の59人の新規感染を記録して松山市の繁華街の飲食店に営業時間短縮を要請する方針を示した25日以降にも7件を確認。参加人数の最多は23日の45人で、24日に38人、26日に33人が参加した送別会があった。送別会の自粛を呼びかける立場の人事課や保健福祉の推進に当たる保健福祉課なども開いていた。愛媛県職員、自粛要請中に20人超の送別会16件 知事給与返納県の市町振興課職員30人前後が参加した送別会が3月24日夜に松山市の道後温泉の旅館で開かれたとの一部報道で発覚。県が調査したところ、20人超の会食が3月23、24の両日で計9件あった。さらに、県内で過去最多の59人の新規感染を記録して松山市の繁華街の飲食店に営業時間短縮を要請する方針を示した25日以降にも7件を確認。参加人数の最多は23日の45人で、24日に38人、26日に33人が参加した送別会があった。送別会の自粛を呼びかける立場の人事課や保健福祉の推進に当たる保健福祉課なども開いていた。県の市町振興課職員30人前後が参加した送別会が3月24日夜に松山市の道後温泉の旅館で開かれたとの一部報道で発覚。県が調査したところ、20人超の会食が3月23、24の両日で計9件あった。さらに、県内で過去最多の59人の新規感染を記録して松山市の繁華街の飲食店に営業時間短縮を要請する方針を示した25日以降にも7件を確認。参加人数の最多は23日の45人で、24日に38人、26日に33人が参加した送別会があった。送別会の自粛を呼びかける立場の人事課や保健福祉の推進に当たる保健福祉課なども開いていた。県の市町振興課職員30人前後が参加した送別会が3月24日夜に松山市の道後温泉の旅館で開かれたとの一部報道で発覚。県が調査したところ、20人超の会食が3月23、24の両日で計9件あった。さらに、県内で過去最多の59人の新規感染を記録して松山市の繁華街の飲食店に営業時間短縮を要請する方針を示した25日以降にも7件を確認。参加人数の最多は23日の45人で、24日に38人、26日に33人が参加した送別会があった。送別会の自粛を呼びかける立場の人事課や保健福祉の推進に当たる保健福祉課なども開いていた。県の市町振興課職員30人前後が参加した送別会が3月24日夜に松山市の道後温泉の旅館で開かれたとの一部報道で発覚。県が調査したところ、20人超の会食が3月23、24の両日で計9件あった。さらに、県内で過去最多の59人の新規感染を記録して松山市の繁華街の飲食店に営業時間短縮を要請する方針を示した25日以降にも7件を確認。参加人数の最多は23日の45人で、24日に38人、26日に33人が参加した送別会があった。送別会の自粛を呼びかける立場の人事課や保健福祉の推進に当たる保健福祉課なども開いていた。県の市町振興課職員30人前後が参加した送別会が3月24日夜に松山市の道後温泉の旅館で開かれたとの一部報道で発覚。県が調査したところ、20人超の会食が3月23、24の両日で計9件あった。さらに、県内で過去最多の59人の新規感染を記録して松山市の繁華街の飲食店に営業時間短縮を要請する方針を示した25日以降にも7件を確認。参加人数の最多は23日の45人で、24日に38人、26日に33人が参加した送別会があった。送別会の自粛を呼びかける立場の人事課や保健福祉の推進に当たる保健福祉課なども開いていた。県の市町振興課職員30人前後が参加した送別会が3月24日夜に松山市の道後温泉の旅館で開かれたとの一部報道で発覚。県が調査したところ、20人超の会食が3月23、24の両日で計9件あった。さらに、県内で過去最多の59人の新規感染を記録して松山市の繁華街の飲食店に営業時間短縮を要請する方針を示した25日以降にも7件を確認。参加人数の最多は23日の45人で、24日に38人、26日に33人が参加した送別会があった。送別会の自粛を呼びかける立場の人事課や保健福祉の推進に当たる保健福祉課なども開いていた。県の市町振興課職員30人前後が参加した送別会が3月24日夜に松山市の道後温泉の旅館で開かれたとの一部報道で発覚。県が調査したところ、20人超の会食が3月23、24の両日で計9件あった。さらに、県内で過去最多の59人の新規感染を記録して松山市の繁華街の飲食店に営業時間短縮を要請する方針を示した25日以降にも7件を確認。参加人数の最多は23日の45人で、24日に38人、26日に33人が参加した送別会があった。送別会の自粛を呼びかける立場の人事課や保健福祉の推進に当たる保健福祉課なども開いていた。県の市町振興課職員30人前後が参加した送別会が3月24日夜に松山市の道後温泉の旅館で開かれたとの一部報道で発覚。県が調査したところ、20人超の会食が3月23、24の両日で計9件あった。さらに、県内で過去最多の59人の新規感染を記録して松山市の繁華街の飲食店に営業時間短縮を要請する方針を示した25日以降にも7件を確認。参加人数の最多は23日の45人で、24日に38人、26日に33人が参加した送別会があった。送別会の自粛を呼びかける立場の人事課や保健福祉の推進に当たる保健福祉課なども開いていた。愛媛県職員、自粛要請中に20人超の送別会16件 知事給与返納愛媛県職員、自粛要請中に20人超の送別会16件 知事給与返納愛媛県職員、自粛要請中に20人超の送別会16件 知事給与返納

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      こども食堂の友人からのラインに、ミャンマー非常事態に長井さんを思う。

      長井さんが射殺される数日前には何万人もの僧侶が鉢伏せ行という軍政に抵抗する抗議デモを起こしました。僧侶たちを襲撃する様に命令された兵士の幾人かはジャングルに逃亡しました。その頃はまだカレン人とか少数民族に対して軍政はカレン人の仏教とにカレン人のキリスト教徒を襲撃させたりして、その報道も有りました。実際、私が援助しているビルマ人はカレン人でキリスト教徒です。何故キリスト教徒が多いかというとイタリアなどの西欧諸国のボランティアは規模が大きく大企業出資していて、スマトラ津波時も「船を修理するから日曜礼拝に来い」という話が有りました。というような状況下で数万の僧侶が決起したわけで、その時点で私は僧侶たちに呼びかけて連帯集会を企画している途上に長井さんが殺されました。そこでその弔いとビデオ奪還と真相究明とを民主化運動協力と兼ねて集会をしました。今収監中の松山市仏教界旧会長も参加して二十六名で石手寺本堂で祈りの会をしました。今も9月27日には毎年ビルマ僧侶に連帯し長井さんを悼みその志を継ぎビルマの平和を祈る祈りを継続しています。そのときの情景を詩にした御詠歌は毎日境内にこだましています。彼はイラク戦争時のバグダッド空襲も撮っている。生きていれば、現在のミャンマーの現状がリアルタイムで記されたであろうと思うと貴重な人材を失ったのだということが痛感されるし志を継ぐといいつつ出来ていない自分自身に腹が立つし、勇気の不足を痛感する。さて、今回の軍隊トップの蛮行に対して体を張っているのは青年だ。死亡者はたしか16~20歳過ぎまでの若者だと報道で聞いた。14年前の町を埋めつくした僧侶たちはどこへ行ったのか。トップが殺されて骨抜きになったのか。ならば生き残っている私たちとは長井さんから見れば骨抜かれ人間だ。腑抜けだ。

  • 09Apr
    • 英語でプラウド、オットクラウド。雲間の太陽。私の存在価値がプラウド

      誇りとは何恥の文化とは何アメリカンドリームとは何結局、何もない人間の存在証明さ一物ある人間はそんなものには頼らない英語なら、インディペンダンと独立だ。独立した人間は、媚びない、貰わない、忖度しない、評価を受けない、世間体を気にしない。だから独立、日本語で自立とか自律。してないひとが頼るのが、マネー、世間体、評価、他人の目線だ。だから独立した人間は、することがない。西洋では神はそのものであってそれ以外ではないそのようにスピノザは目したし、ライプニッツも目途したしかるに、その後の哲学者は科学思想の発展に嫉妬して世間体へと走った。その極みがハイデッガーでありナチスだ。ヒトラーは自分の不安を世間体で埋めた。つまり称賛のみが彼の自立だ。称賛されないと彼は打ちのめされた。生きる意味を失ったのだ。だから彼は必死で称賛を渇望した。その結果は道連れだ。スクール。原義は暇だ。暇とは無駄だ。無駄な人生を覚ったものが、真の余暇を得る。真の余暇とは永遠の時間であり、死を受け入れた生である。

  • 04Apr
    • いったいなにをきらうのか、たいりつするのか

      いったい、なにが、こうそうするのか隣の国の方が敵対する遠い国はとおい近い国はちかいなぜ近親憎悪。隣を憎み。隣と競争し。隣に勝って粋がるナンセンスだ。そして肉親が死んで自分も死ぬ死ぬほど泣く骨が砕けて肉が散乱するほど苦痛にのたうち回るちぎれ、くっつき、さけて、ずれて、原形を復元してたわみ傾斜して停まりながら軋んでいく

  • 01Apr
    • 人生すべて塞翁が馬

      種を撒け落ち穂を拾えどの種が実を結び何が死すかそれは撒いたもののみが知る

    • 生きている意味、生き続ける根拠、根っこ

      生き続けることの根っこは、持続かそれとも変革かその通り変革こそが進化であり明日だそれに対して子孫を守ることは保持だ保持という保身とか保守と、未だ見ぬ明日への跳躍、それは死を意味する飛躍だがそこに死なない意味があるだがこれは南雲弁護士が示した論理的帰結だ論理的でない何かがあるとしたら自他平等無二だ。

    • 生かされていると思った

      今まで自分は自分で生きていると思っていたしかし今日は私は生かされているsomethingismakingmebe aliveと思った野垣先生と渡部さんとそして安藤先生と、きょうの南雲さんやその他大勢と冷たいバニラアイスクリームの間隙に感激。した。おしまい計。

  • 31Mar
    • 永遠の魂

      ミャンマーで死んでいく人々も永遠の魂に触れているのだと信じたい自分は今日の結審を通してそのように確信した'87 夜ヒット  オープニングメドレー井上陽水 → 中森明菜 → 安全地帯 → HOUND DOG → THE BLUE HEARTS → 中村あゆみ → Red Worriors → 久保田利伸 → 田原俊彦 → バービーボーイズ → 渡辺謙 → 本田美奈子 → THE ALFEE → 吉田拓郎www.youtube.com

    • フォー リバー再度

      ひょっとするとりばー再度水辺とは、それひとりでは成立しないでは、何かと成立するそれはリボルバー再度side水の側か溢れる勇気。溢れる死人side心で生きる