「写真」  高平九

 

   昨年も新年会の二次会はカラオケに行った。女性課長は二度目の『ラヴ・イズ・オーヴァー』を歌っていた。アラフォーの彼女は一度目はこの歌を万感込めて素面で歌い、二度目はすっかり酔っ払ってお気に入りの若い部下を左右に侍らせて歌う。もはやこれが課の宴会の恒例行事となっていた。

  神谷の隣には真田が座っていた。真田は高校時代にバスケットボールで全国優勝したチームのレギュラーだった。そんな真田が隣にいると大きな身体に圧倒されて居心地が悪かった。彼は入社三年目で去年までは課長のお気に入りだったが、今年は新人に脇侍の地位を譲っていた。

「やっと解放されましたよ」と言った真田の口調はそれほど悔しそうではなかった。どうやら本音らしい。と言うのも真田は年末に結婚したばかりだったからだ。神谷は披露宴で乾杯の音頭をとった。大きな新郎の隣にちょこんと座った可愛い新婦の姿を思い出しついつい愚問を口にした。

「新婚生活はどうだ?」

「楽しいですよ、そりゃ。でも……」

  真田はジンライムのグラスを口に運びながら課長の方を一瞥した。課長は左右のお気に入りに支えられて、半泣きしながら「ラヴ・イズ・オーヴァー!」と叫んでいた。

「係長は奥さんのこと怖いと思ったことないすか?」

「怖い?」

  思わず聞き返した。真田の大きな身体と「怖い」という言葉にギャップを感じたからだ。それに課長の泣き歌がカラオケルームに響いていたので聞き間違いということもある。だが真田の目は真剣だった。

「元カノの写真とかどうしてます?」

「写真? 結婚前に捨てたと思うが……」

  記憶の固い土を掘り返して冷え切った恋の棺を開くと何枚かの写真があった。間違いない。それらの写真は六年前結婚するときにアルバムから抜き取って捨てた。お陰でアルバムは虫食いだらけの不自然なものになった。だが、妻はそれを見ても野暮な質問をしたりしなかった。

   「捨てた」というのは正確ではない。へたなところに捨てれば妻に発見されないとも限らない。神谷は煙草を吸わないが部屋にはなぜか灰皿とライターが置いてあった。どちらも喫煙者だった元カノが置いていったものだ。分厚いガラスの灰皿の上で写真の中の元カノの笑顔が燃えて歪んだ。神谷はこみ上げてきた苦い罪悪感を流すようにハイボールの残りをあおった。

「トイレの上に天井裏の点検口があるじゃないですか。俺、元カノの写真を捨てることが出来なくて隠しておいたんです。時々、そこにあることを確認していたんですけど、先週見たら、なくなってました」

「それって……」

「たぶん、嫁が見つけたんだと思います」

「嫁さん何か言って来たのか?」

「それが普段と全然変わらないんですよ。それがかえって……」

   「怖い」という言葉を真田は飲み込んだ。神谷はまた真田の嫁の愛らしい笑顔を思い描いた。女は外見だけではわからない。

「処分するべきだったな。それが礼儀だろ」

「それがどうも……かわいそうで」

  身体は大きいが、真田は気持ちの優しい男だった。元カノとは遠距離恋愛の末に向こうに男が出来て別れたと聞いていた。当時はずいぶん荒れたそうだ。そんな相手の写真を捨てられないなんて。こんなに優しい男が全国の猛者達と戦って勝ちをおさめたとは信じがたかった。「気は優しくて力持ち」という言葉が浮かぶ。   

「未練だな……」

  神谷が言うと真田は痛みを堪えるように眉根を寄せた。

「……嫁さんはその写真を切り札に使うつもりだぞ」

「ですね」

  課長の歌が終わった。モニターに次の曲の題名が「香水」と表示された。

「真田、歌います!」

  真田がマイクを持って立ち上がった。彼が目を瞑って熱唱しはじめるのを、ソファーにだらしなく寝そべった課長がじっと見ていた。そのとき神谷は突然あのトワレの香りを嗅いだ。

  由美子は全国の支社を回って二年前に東京本社に戻って来た。選りに選って神谷と同じ課の上司として。彼女は別れた後も同じオー・ド・トワレを使っていた。もちろん二人の関係を知っている者は誰もいない。だが、由美子は飲み会になって酒が入ると必ず若い部下を侍らせて『ラヴ・イズ・オーヴァー』を歌う。彼女はまだ独身だった。真田を見ていた由美子の目が神谷にシフトするのを感じて神谷は目を伏せた。

 

 それ以降は新型コロナのせいで宴会が出来なくなった。

 正月七日の夜。神谷は由美子から送られて来た動画を寝室のベッドで見ていた。酔った由美子は大きなぬいぐるみに挟まれて、『ラヴ・イズ・オーヴァー』を歌っている。その泣き笑いの顔がガラスの灰皿の上で燃えてねじれた写真の顔と重なって見えた。

「未練だぞ」

  神谷はそう呟いて動画を消した。背後から妻の寝息がひときわ大きく聞こえていた。

 

(近況) 高平 九

 

  引きこもっております。退職後は大きな顔をしてこもっていましたが、今は少し引け目を感じつつ引きこもっております。船が難破して荒海に放り出され、みんなが小さな板きれを取り合っている中で、私だけ浮き輪でプカプカと暢気に浮かんでいるような気分です。チッという舌打ちが聞こえてきます。でも、聞こえませんか。かすかな空気の漏れる音が……。