私は寄付や募金が大嫌いです。それは小学生の頃に遡ります。
小学生2〜3年生の時、募金を集めるためのお金を明日持ってくるように先生からHRにて連絡がありました。
当時の私はお小遣いなど持っていませんでした。
先生は「一円でも良いから」と、言っていましたが私には一円すら持っていませんでした。
私は帰宅後、父親がタバコを買いにコンビニへ行くと言い私も一緒についていく事にしました。
父親がタバコを買い、お釣りを受け取った後明日学校に持っていくからお釣りの一円が欲しいと父親に伝え、父親はそれを了承し私にくれました。
私は無くさないために当時ポケモンカードを入れるために使っていたスリーブの中に入れ、忘れないためにランドセルにしまいました。
翌日学校へ持って行き、自分が募金箱に入れる番が近づいてきたのですが自分の前の女の子が多くの額を持ってきたのです。
先生はその女の子を褒めました。
次に私の番になりました。
私は父親から貰った一円を入れましたが、それを見た先生は私を睨みつけました。
そして「なんで一円だけなの」と私に怒りに満ちた声で問いかけました。
私は「先生が一円でも良いからと言ったから」と返答しましたが、先生は「それが問題ではない」と呆れ顔でした。
私は泣きはしませんでしたが、怒りに満ち溢れ「絶対募金や寄付などするものか」と心に誓い今まで来ました。
そして大学生になった頃経済学でアダムスミスを知り、次の言葉で自分の正しさを認識しました。
我々が自分たちの食事をとるのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈愛のおかげではなく、彼ら自身の利害に対する彼らの関心のおかげである。
我々が呼びかけるのは、彼の慈愛的な感情に対してではなく彼らの自己愛に対してであり、我々が彼ら自身に語るのは我々自身の必要についてではなく、彼らの利益についてである。同胞市民の慈愛の心に主として頼ろうとするのは、乞食においてほかにはいない。
アダムスミス 国富論より
結局募金や寄付に頼ろうした日本の現在はどうでしょう。公金チューチューするアリにたかられ、利益に貢献しようとする人をバッシングする社会になってしまった。
日本が貧しくなったのは物価が安いからではない。
金を集ろうとする乞食マインドが染み付いてしまったからだ。
もっとみんなが寄付や募金ではなく、投資をすれば社会のみならず自分の生活を豊かにできるのだ。
次の画像をみてもらいたい。
なんとBLMの活動家リーダーが寄付金で高級物件を購入したの報道があった。
最近日本のcolabo問題もそうだが、寄付金や募金は貰う側払う側に責任が介在しないからこのような問題が生じるのだ。
そこで次の言葉がある。
芹沢達也 「ラーメン才遊記」より
投資は貰う側は下手な運用が出来ない。払う側は自己の身銭を切り責任を与える。
だから、私は言う。
「寄付や募金するなら投資をしろ」と。