仕事場での要素で考えると、「普通」ってのは、


その場面において必要とされる最低限の条件


なのかな、と。それなら納得が行く。


それを満たしていなければ、やっぱり「普通ではない」し下される評価は「不適合」なのかもしれない。


でもさ、それらを満たす方法については限定されていないと思うのね。大多数の人と同じやり方で出来ないなら、他のやり方を考えようとしなければ、そりゃどこでも不適合って言われるだろうしそれに反論する資格はないんじゃないかな。


私は発達障害の存在を多くの人に知って欲しいし、私が当事者だから気付くこと考えることを元に当事者同士でもそうでない人とでも話し合え、それを役立てる機会は欲しい。


でもそれは

「発達障害だから何でも許せ」

なんて言ってないの。


特に当事者同士の話でよくあるのが、障害に起因するネガティヴな事象について悲しみの共有をし、

「理解して欲しいよね。」

と共感すること。そこまでは私もよくあるけど、

「私達はもっと理解されて失敗を許されていい。」

のような方向性に会話が進むのは違うと思う。


何より必要なのは

「どうありたいか」

を明確にして、グロウダウンして実状と比較すれば、改善すべき点、原因の追求、考え方やり方の転換、ツールについて、etc. ポジティヴな話が出来て、発見もあるかもしれない。決まった正解なんてないものだという前提でいれば責任転嫁もない。


そうやって、自分も「普通」に対してアプローチして行かなきゃ理解も措置もあり得ないと思う。


こういうことを言ってると、仲間であるはずの発達障害当事者から

「みんながあなたみたいに強くないし、そう出来るわけじゃない。」

などと言われることもある。でも、私はこうしていつも手探り体当たりだよ。失敗もする、というか、多い。やらかし続けてる。


「やってもみない人はお話にならん。」

と言い放つのは簡単だけど、最近歳の分、そして小さくても自分の中での体験成功例から微量ながらも積み上げて来ているほんの小さな自信でもって

「一緒にやってみようよ。」

と言おうと心がけてはいる。正直面倒臭いけど、年寄りの役目ってこういうことなんじゃないかと思うのね。


仕事場でも、まだまだ頑張れるわ。よっこいしょ!