近頃、いくつか安心が増えた。自分の中の不安が減るわけではないけど、相対的には割合が変わる。

今のところ5歳年下のボーイフレンドとはすごく心地よく付き合えている。刹那主義ではないけど、望んだ時にいつも『今』が用意されているという安心感。永遠に続く関係なんて想像もできないし、むしろそれを語られたらたちまち不安なものに逆転してしまうだろう。

最近は何となくもっと優しい人間になりたいと考えるようになった。

先日彼に
「あなたのお陰でもあると思うの。」
と言ったら、
「それはきっと、あなたのケータイの待受画面のお陰だよ。」
と返された。

今、私のケータイは、産まれたばかりの甥っ子が目を開けてこちらを見ている(ように見える)アップの写メが待受画面になっている。

息子を亡くし、何も考えないようにしてるかのようにアクティヴに動き回るか、酷く落ち込んで悲嘆にくれているかのどちらかしかなかった母。彼女に笑顔とカラ元気ではない気力を与えてくれたのは、孫の存在なんだと思う。

先日、母と一緒に弟の家にお邪魔した。上の子はお兄ちゃんになったとはいえまだ四歳、やんちゃに動き回り大人達に甘えて可愛く(少々憎たらしい口もきくようにはなったが)、産まれたばかりの赤ちゃんは当然寝てばかりだが存在自体が和ませてくれる。母は上の子に話しかけたり、赤ちゃんをあやしたり、何だかとても楽しそうだった。

その後、何かの拍子に母が
「最近ね、お兄ちゃんのことを考えることが減って来ちゃった。」
と言った。

これまで、突然息子(私の兄)が亡くなったことで理由もなく自責し続けただただ悲しいことばかり考えていたように見えた。彼女はずっとそうやって生きて行くのかと悲しくなり、それでも仕方ないことなのだろうと半ば諦めた気持ちで見てきた。

兄が亡くなり、その後祖父、祖母、祖父母の兄弟と立て続けに亡くなり、何だか毎年葬式や法事があった気がする。そんな中、私はぼんやりと
「ああ、この先誰かがいなくなることばかりなのかな。」
と考えていた気がする。でも、甥っ子達の誕生でそうではないことに気付いた。

それを母に話すと、
「そりゃそうよ。」
と笑った。私は何だかすごく大きな安心を得た気がした。

正直言うと、兄の突然の死では私もかなりの衝撃を受けた。衝撃の強さゆえか、その後ずっと若くして亡くなった兄を差し置いて自分だけが幸せになってはいけない気がしていて、母の悲しみに付き合いながら生き、両親が年老いて亡くなった後は自分が墓守りをしていくのだ、とどこかで思い込んでいた。それは、病気に苦しむ兄が自分を拒むのを真に受け放っておいて独りで死なせたというのと、兄が生前に抱えていた悩みの原因は自分の存在にもあるという罪悪感。また、年子でいつも一緒にいた兄と同調したいという心の現れだったかもしれないが。

言うなれば、どこかで幸せを諦め、あるいは拒んで来たかもしれない。

だけど今、何となく自分が幸せになる努力をしてもいいんじゃないかと思えてきた。兄の人生は兄のもの、私とは同調したり交差したりしたけど別個のものだ。

私達家族に起きた出来事を公共の場所で語る勇気はまだないけど、同じ思いをした人のためにいつか何か残したいとは思っている。それはもしかしたら自分が幸せだと少しでも実感出来て心の余裕が出来た時じゃないだろうか。

新しく生まれるもの。
育んで行くもの。
幸せになろうとする努力。
それらは生きて行くのに大事な要素なのかもしれない。

これまでにない安心を与えてくれるボーイフレンドとの関係にも、何だか以前より一歩踏み込めそうな気がしている。少しずつ、ひとつずつだけど。