クラウド・バスターの安全対策

雨の中の忠綱寺


安全対策のことばかり書いても面白くないでしょうから、たまには息抜きのための文章なんてのも書いてみます。


先日、友人と千代田線の根津駅で待ち合わせました。友人の元部下が根津に喫茶店をオープンしたからです。その様子は「ヴェスペの巣」ブログに書いているので、こちらでは友人との待ち合わせ時間の前に根津周辺を歩いたお話を書きましょう。


待ち合わせ時間の30分前に根津に到着した僕は周辺を少し歩いてみようと思いました。しかし・・・当日は生憎の雨・・・。あまり遠くまで歩いても雨に濡れてぐちゃぐちゃになってしまうだけなのでね。

僕が2年前まで勤めていた会社は根津の隣の湯島にあって、当時担当だった家電新聞の印刷所が上野池之端にありました。池之端といえば湯島と根津の間に位置するところで、どちらかといえば根津に近いようです。校正の合間に印刷所を抜け出しては根津の周辺を散策したものです。懐かしいのは東大の学生食堂です。今はどうか知りませんが、当時は誰でも気軽に東大の食堂に入って食事をすることができました。弥生美術館あたりから工学部当たりに入って、そのまま安田講堂の中央食堂で食事をしたものです。安田講堂といえば、学生闘争のときのモニュメントみたいなものですね。想像したよりも小さい建物でしたが、当時は建造物としての異様な美しさに見とれたものです。

それに天下の東大です。東大生と一緒に食事できたりするなんて・・・なんか楽しいじゃないですか? 五流大学を中退した僕には憧れの大学なんですからね。

おっと・・・今回は東大ではないのです。根津でした。

根津はその東大(元加賀藩の屋敷)・・・の崖下に位置し、湯島、上野、下れば日暮里・・・谷中の墓地に隣接した静かな下町です。根津には根津神社があって、休日には参拝客でにぎわいを見せる町です。また、食事処としては隠れた名店がたくあんあって下町といってもいささか品がある奇妙な一角なのです。

根津駅から池之端に向かって歩きます。狭い路地にはいくつも小さな店が隠れています。そういえば規模は少し違うけれど神楽坂もこんな感じですね。雨なので通行人はあまりいません。右手にお寺がありました。東京史跡案内の立て札には・・・ん?忠綱寺?渡邊綱の??んん??以下に立て札の文章をそのまま流用してみましょう。

「当、忠綱寺は人皇五十二代に始まる所謂、嵯峨源氏の流れをくみ左大臣源融から四代後の源綱が摂津の国、渡邉に住まいしたところから姓を渡邊と名乗るようになる。羅生門の鬼退治で有名な「渡邉の綱」がこの源綱である。さらにこれより二十三代目が渡邊半蔵源守綱である。譜代である徳川家康に弘治三年(1557年)十六歳で出仕する。桶狭間の戦いでより二年後の永禄五年(1562年)三河八幡の戦いで今川の将、板倉弾正の率いる敵と戦い防戦一方になる時その殿りを任せられる。半蔵大いに奮闘し敵将山下八郎三郎と槍を合わせその首級をあげその間に味方の士を数十人救って無事退却させた。家康大いに称揚し以後「槍の半蔵」の異名で知られることとなる・・・。その後、武蔵比企を知行地に与えられた。この重綱、孫の忠綱と続くが、忠綱が弱冠20歳で夭折したため、兄想いの弟である大学・・・のちに吉綱は神田台に渡邊院忠綱寺を建立して菩提を弔った。その後、池之端の現在地に移った」・・・とあります。