健康と嗜好品の1回目は「タバコ」です。肺がん罹患を誘発する最大の要因です。
健康のためには喫煙は毒となるのですが、少し前までは歩行喫煙や上映中の映画館の中や、勤務中に喫煙しても咎められることがありませんでした。今回はその歴史と毒性について紹介しましょう。
タバコはナス科タバコ属(Nicotiana) の1年草です。タバコ属には約50もの種類が含まれていますが、大規模に栽培されるものは「N. tabacum 」と 「N. rustica 」の2種類に限られています。特に「N. tabacum」 は、ニコチン含有量が高いために商業的に価値があります。栽培種として重要なのは強健性、葉の産出力、病気に対する抵抗性、細胞組織が持つ弾力性、香料との親和性です。
そのため品種改良を施され現在では約100の品種に分かれています。それらの品種を大別すると、火力乾燥を行い葉が黄色い状態で乾固させる黄色種、褐色になるまで空気乾燥を行うバーレー種、葉巻種およびオリエント種が主なもので、その他、地域の喫煙文化と歴史的な関わりを持つ地域固有品種も数多く、日本国内でこれらは在来種と呼ばれています。
日本ではブライトエロー、バージニア、コーカー、MC, つくばなどの黄色種と、バーレー21、たいへい、みちのくなどのバーレー種が栽培されています。両切りタバコや刻みタバコの時代に主流を占めていた在来種は現在、熊本県
を中心とする九州
山地一帯、福島県
、栃木県
、茨城県
、徳島県
で、5品種が僅かに栽培される程度です。
日本でのタバコの製造は、日本たばこ産業 (JT) のみが行っており、葉タバコの栽培はたばこ事 業 法 の定めによって、JTと契約した農家だけが原料用として栽培することができ、契約農家には種子が無償で配付されます。また、たばこ事業法 は、原料として使用できないものを除き、農家が売り渡す葉タバコ全量の購入をJTに義務づけています。葉タバコは種子から育てるのではなく、いったん苗を苗床で生産し、その後、移植することで栽培します。日本での種まきの時期は、沖縄県の12月に始まり、順次北上して東北地方では3月となります。
また、栽培体系は、苗床期間は親床と子床の2段階に区分され、親床で発芽した苗を間引きしながら3週間程度の後に、育苗ポット主体の子床に 一本ずつ植え替える仮植(かしょく)作業を行います。畑への移植時期は沖縄の2月上旬に始まり、九州では3月、東北では5月が一般的です。
成長に伴い4月から6月に花芽が現れますが、開花直後に芯止めと呼ばれる摘芯作業を行い、花芽は摘み取られます。これは「わき芽の除去」とともに、原料として利用する葉の成熟にとっては欠かせない、重要な作業となります。また、品種によってはこの時期にニコチン成分の少ない下葉を除去して、上葉~中葉の熟成を促す栽培法を取る農家もあるようです。
黄色種では本葉と上葉8から10枚程度を最後まで残して、十分に成熟が進んだ時点で一斉に収穫します、総がきという収穫作業が行われますが、農家によっては畑毎の成長差や天候状況などにより、順次収穫・乾燥している場合も多いようです。
黄色種などは主に大型の電気窯を使って乾燥された後、選別、圧縮を経て9月~10月頃にJTへと出荷されます。
「タバコの毒性について」
さて、肝心のタバコの毒性について触れていきましょう。タバコは“百害あって一利なし”です。
これまでタバコを紹介したのはタバコを吸ってほしいからではありません。最近の健康ブームでご承知のことだと思いますが、タバコは万病の元でしかないのです。吸っている方々はもちろん、その煙を知らぬ間に吸ってしまう受動喫煙も大きな問題になっています。
実は喫煙は喫煙病(依存症+喫煙関連疾患)という全身疾患であり、医学的には喫煙者は『患者』とされています。
タバコに含まれる物質は約4,000種で、うち200種は“致死性有害化学物質”とされ、発がん性を持つ物質には約60種以下のようなものがあります。まずはタバコ葉に含まれる発がん性を持つシアン化水素、ダイオキシン、ニトロソアミン、ベンゾビレンなどの数種。さらに鉛、ヒ素、窒素酸化物、アンモニア、ホルムアルデヒドなどです。他にもニコチン、ナフチルアミン、ベンツビレン、ベンゼンといった有害物質が含まれています。
タバコ葉を栽培するタバコ農家の就農者にも健康被害が報告されています。栽培すれば野生生物や近隣住民にも害があるようです。子供の誤飲や喫煙者の大量摂取によって急性中毒を起こして死亡してしまう事例もあります。
これほど強い毒性持つタバコがこれまで何故問題視されなかったのでしょうか 日本では1985年に日本専売公社から日本たばこ産業に民営化され、財務省が、その株を大量に保有している…さらに、同省からの天下り先となっているため。禁煙活動は遅々として進まなかったという説があります。
参考資料:Wikipedia