10代の時、人間関係がうまく行かない時があって
その当時は両親もケンカばかりで
どこに行っても居場所がないような時期があった。
当時は母の行動に理解が出来なくて
家庭を放ってまで仕事ばかりで
帰りが遅くなるので
夜遅く帰ってくる母に父が暴力をふるうことも何度もあって・・・
小学生の時は、母を守るために間に立ちふさがって
私も一緒に投げ飛ばされたこともあったな。
気の強い子だったので、おかげで学校で嫌なことがあったも
絶対に学校を休まなかった。
でも、家庭がボロボロだと家で落ち着かないので
学校でも勉強に身が入らず、成績がよくなかった。
父の転勤の関係で幼少期から引っ越しが多かったので
幼馴染もいないし、友達も変わるので
いつも孤独な時が多かった。
それでも短期間で親友を作るのも上手で
とても仲良くなる子がどの時期にもいたのは良かった。
しかし、高校卒業の時に親友だと思っていた子に
裏切られていたのを知って
精神的にバランスが崩れた。
本気で信じている人に裏切られたのは初めてだった。
嫌いな女子に嫌われてもなんともなかったのに
親友に裏切られたのは初めてで
それまでの色んな家族の問題とかも重なって
自分でどうしようもなくなって、眠れなくなった。
その時の経験が、「人を信じすぎるな」という
私のベースになっているので
私はどんなに仲良くなっても心のどこかで距離を置いている。
ベースには両親のケンカと父のDVモラハラと
母の家庭放棄があるし
兄の不安定や妹の問題も色々あって
家族ってものは不安定なんだと言うのも知っている。
そして、私も精神疾患を発症してしまい不安定だった。
おかしくなる時は、冷静な自分が客観的に自分を見ていて
おかしなことをしている自分を眺めているような感覚。
テレビの中の人が自分のことを言っているような気になったり
街の中で誰かが自分を監視しているような気になる。
住んでいたアパートの目の前の家から
なんか電波を飛ばしていたり
盗聴をされているような気になる。
新聞配達で家の前に来ただけの人に言いがかりをつける。
このすべては自分の身を守るためになんだけど
他人から見たら奇行だ。
奇行を行っている自分も、まともな自分がどこかで見ているので
している行動も覚えていた。
だけど、コントロールが出来ない。
おかしいと言われて、一人暮らしの家から実家に連れて返されて
実家で過ごすのだけど、
自分が汚いと思えてお風呂に入り続ける。
でも、不安から服が脱げない。
服のまま夜中からずっと風呂に入っておかしなことを言う。
飼い犬が自分に悪意を向けているような気がして
尻尾を持って逆さにして「なんでよ!」って怒る。
犬はおびえてガタガタ震えているのに・・・。
全部燃やしたくなって、集めた手紙やノートをバケツに入れて
灯油をかけて火をつけようとする。
灯油って燃えないのでなかなか火がつかない。
庭に線香を立ててお祈りしたりする。
雨の中、一人歩き続けて
髪の毛を振り乱して歩いているので
近所の小学生が驚いて親にいったのか
通報されて、パトカーに保護された。
その時に、母が迎えに来て・・・
父と母の話し合いの元
もう仕方ないねと、精神病院に入れられた。
初めて連れていかれるとき
いくつかの病院を探して訪ねて
「ここは大丈夫か?」と言いながら
父と母で病院を探して車であちこちに行っていた。
私は後部座席で他人ごとのように外の景色を見ていた。
最初の病院は閉鎖病棟的な牢屋のような部屋に入れられた。
外が見える病院で、外の作業員に叫んだのを覚えている。
心理テストみたいのをしたのも覚えていて
対して話も聞かないで、色々チェックしながら
「どうしてそう思うの?」なんて聞かれた。
これはこんな風に答えた方がいいんだろうな。と
どっかで思いながら、芸能人の名前を何人か言った気がする。
なぜか、明石家さんまさんの本名を言ったり。
そういったことも、客観的に自分がずっと見ている。
最初の病院はなぜかそんなに長く居ないで退院した。
別の自然豊かな病院に行ったのを覚えている。
外の作業員に声がかけれないような山の景色のような場所だった。
その病院で、姉御という方に出会う。
色んな方と心通じ合える出来事はあった。
でも、医者と看護師とは全く分かり合えなかったり
理解してもらえている感覚はなかった。
看護師は、頭のおかしい子として扱っていた。
若いのに可哀想にね。
そんな風にも言われた。
思い出すと屈辱的な事もあったけど
よく耐えたなと思う。
季節が変わるぐらいその病院に居たけど
父が精神薬の投与ばかりするのを心配して
半ば強引に退院させた。
「薬をあまり打たないでくださいよ!!」
と医者に怒っていたのを覚えている。
精神病院は薬漬けだ。
暴れたら注射。普段は投薬でボーっとさせる。
おかしくなっていくのが分かる。
絶対にここに居続けても治らないって思っていた。
退院して父はよく説明もしないで
私を引っ張るように県外の病院に連れて行った。
かなり遠かった。
駅について、その病院に行くのに徒歩で向かっていると
私は精神病院の薬をまったくのまなくなってたのに
頭がおかしくなる感覚があって
眼球が頭の後ろにひっくり返る感覚になり
真っすぐ歩けなくなった。
目と一緒に舌も上にひっくり返る感覚で
体が後ろに反り返って真っすぐ歩けない。
ひっくり返りそうになって歩く私を
父は「なにやってるんだ!!」と怒りながら
引っ張るように病院に連れて歩いた。
本当に苦しかったし、水も飲まないでいたので
喉がカラカラだった。
タクシーに乗せて、水を飲ませたらよかったのにな。
病院につくと、おじいちゃんの先生が
診察してくれて、父も何かを言っていた。
私はまともに喋れていない自覚があったので
先生も私にそんなに色々聞かないまま
「じゃあ、宿便を取ります」と言って
浣腸で通水をした。
した途端に我慢できなくてトイレに行きたくなった。
「もっと、我慢して!」と言われたけど我慢できなかった。
「忍耐が出来ない子なんだね」と言われた。
他にも「動きが鈍い」とも言われた。
気が付いたら、父は手続きを終わられて
私を置いていなくなっていた。
一刻も早く、私を置いて帰りたかったんだろうな。
私がおかしくなり始めたのは夏ごろで
二つの精神病院を経て、3つ目の自然療法の病院に居た時は
冬になっていた。
どれぐらいいたか記憶はないけど
細々と貯めていた私の貯金は、この入院費に当てられてなくなっていた。
当時、兄は大学生でお金がかかり、私も一人暮らしでいたのでお金がかかり
親はとてもお金がない時期だったらしい。
兄も私の2年前に大学受験に失敗していた。
その前に精神疾患にもなっていた。
うちは、兄が先に精神疾患になり、二年後に私が精神疾患になった。
兄も精神病院に入れられた。大学病院だったのでかなりの薬を使われていて
「治りません」と言われたいたそうだ。
でも、父はあきらめずに病院を探し
私が3つ目に行った病院には前に兄も入れていた。
兄は同じく薬抜きをするために自然療法の病院に入ったのだ。
その時私は高校生で、兄とは口を聞いてなかったので
兄がどうなろうと知ったことではなかった。
でも両親はおかしくなった兄に必死でいたので
それもケンカの原因だった。
まともな人間から見て、おかしくなった人は怖い。
私はおかしくなった兄が怖かった。関わりたくなかった。
でも、自分も2年後に同じ道をたどることになって
私がおかしいことに最初に気が付いたのは兄だった。
なので、兄から連絡を受けて私を迎えに両親は来たのだ。
両親にしてみたら、子供が立て続けに二人おかしくなって
修羅場だっただろうな。
さらに、その2年後に妹にも問題がでたので
我が家は10代になった子は2年ごとにおかしくなるという
状況だった。
あの修羅場の家は、今は人に売ってしまったので住んでいない。
あの家は良くなかったよねと、その後我が家では語り合っていた。
両親が社宅暮らしだった子供たちに
一軒家で暮らさせてあげたいと思って建てた家なのに
一番家庭内の問題が噴出した家だった。
8年しか住んでいない。
兄は自然療法の病院を退院した後に
受験生として勉強に向かえるようになり
二浪はしたけど、有名私立大学に進学して
その後、一流企業に就職して割とすぐに結婚した。
親の心配の種から、親の自慢の息子になった。
兄は結婚してからとても穏やかになった。
人柄が変わった。運命が変わったという感じだった。
私もその自然療法の病院を出てから、いくつかの仕事を経て
意欲的に働いていた。
兄のように大学に行く学力はなかったけど
それなりに楽しい日々だった。
そして、20代最後の時期に結婚した。
結婚してから、精神的にとても安定して
実家に暮らすより生きやすくなった。
バランスを崩しやすい部分はあったけど
夫が精神的に強いタイプで
軌道修正しやすくなった。
親との悩みも、受け止めてくれて深刻化にならなかった。
今思えば、両親も精神的に未熟だったのだろうな。
子供が生まれて大きくなって
子供と対等に話せるようになったら
子供たちが私の10代よりもしっかりしていて
救われた。
色々問題もあった時もあったけど
学ぶ意欲は私よりずっとあった。
大学受験はそれぞれ大変だったけど
合格すると安定した。
大学進学は絶対にした方がいいんだなと
思っている。メンタル鍛えられる。親子で。
私は大学に行かない人生だったけど
息子たちは大学に行く人生を歩めてよかった。
精神疾患になって、メンタルもおかしくて
回り道を沢山したのに
結婚して子供が生まれて
その子供たちが
「うちの親っていいよね!」
と素直に言ってくれる。
経済的にも心配しなくていいから
勉学に励めると思う。
後は本人の頑張りだけど
家庭の安定感は子供の一番大事な時期にはとても大事だ。
私の両親は私たちが幼い時は色んな所に連れて行ってくれて
喧嘩もしたり、父は暴力的だったけど
それでも楽しいことも沢山あった。
安定感のないところが、子供それぞれに影響はあったけど
でも、『生きること』をしてきた家なので鍛えられた。
10代で精神病院に入る経験は友達には話していないけど
友達の兄弟や親戚にも、何人か同じような人がいる。
それを聞くと、自然療法の病院を進めたくなるけど
さすがにその病院は今はもう調べたらないそうだ。
同じような療法をしている病院はあるけど
私の入った病院は違う形になっていた。
あの時、父は必至であの病院を探して
兄に続き私も直したくて入れたんだろう。
もともとは、父のDVやモラハラで家庭内は暴力的だったけど
情熱はあったのだろうな。
過去の話しは多少の記憶違いもあるけど
精神的に壊れて、そして改善したのは事実だ。
現代も、様々なストレスでココロのバランスを崩す人は多い。
今は心療内科とか発達障害とか呼び名は変わって
『精神科』とは言わないのかな。
精神病院=頭がおかしい人が入る
という概念を変えるために
呼び名は変わっても
でも、おかしくなった人をそうでない人が怖いと思うイメージは
変わっていないのだろうな・・・。
私だって、匿名だからブログに書ける。
本当の自分なんて誰にも話す気はない。
でも、本当の自分を人にわかってもらわなくたっていいと思う。
自分が自分の味方になればそれでいい。
だから私は自分へのメッセージとしてブログを書くのだから。
自分を知って欲しいとも、いいねを欲しいとも思わない。
誰かにとって、正しい情報とは限らないからだ。
この経験は、私だけの記憶の出来事で
それが事実かどうかなんて誰にも説明できない。
父は、この事実をすっかりなかったことにしている。
人は忘れたい記憶を忘れるように出来ているらしい。
そうしないと辛くて生きていけないから。
生きる力の強い人ほど、嫌な事を忘れる。都合よく改ざんされる。
認知症の人が長生きなのも
嫌な事を全部忘れてしまうからだ。
義母さんは認知症になって、ストレスがなくなって
体のどこも悪いところはない。
きっと長生きするだろう。
嫌な記憶なんて、必要なければ都合よく忘れたらいい。
他人が何と言おうと、自分の人生なんだから
自分の都合なのだ。
忘れていた昔の記憶、急に思い出したかのように書きたくなったのは
最近、小林麻耶さんのブログをよく見るからなんだろうな。
おかしくなった時は
昔の恨みつらみを沢山思い出すのに
すごく視野が狭くなっている。
彼女たちは、愛だなんだと言いながら
戦争の話しも、コロナで辛い人の事も
なにも話題に出さない。
自分たちが生きていくために必要なのは
自分たちが注目を浴びてお金を得ることだ。
戦争の被害を同情してもお金は来ないから目を向けない。
暴露系の人はみんなそうだ。
自分が生きるために必要なのはお金でしかない。
愛とか言ってるけど 愛=お金 だろうな。
捨てるものがないもないけど
生きるにはお金が必要。
暴露系は生きるのに必死で生命力がある。
いじめっ子と同じだ。
昔の麻耶さんなら、幼い子が被害にあっているのなら
遠い国のこととしても胸を痛めただろう。
それが仕事につながる事もあるからだ。
今はそんなこと言っても、仕事にもお金にもならない。
救う気もないのに
いじめられてる子のことを助けるとか言って
少し、知恵の足りない人を集めている。
アンチでもなんでも、お金が集まればそれでいいようだ。
そういう生き方になったのは
出会った二人がどちらも性悪だったからだろう。
相乗効果で余計に悪魔になった。
本当は嫌な奴なのに、いい顔してずっと自分を抑えて生きてきた。
そういう人が爆発するとああなる。
ずっといい子ぶって、そのイメージで仕事来ていたのに
それをぶっ壊していく。
壊れて壊れて壊れまくって、悪態をつく。
愚かすぎて、見てしまう。
微々たるお金意外に得る物なんて何もないのにね。
有名人だから、動画も画像も残るし
吐いた言葉はネットに乗ってどこまでもついてくる。
悲しい人生を進む理由が
ずっと自分を偽って生きてきたせいだとしたら
やっぱり多少色々あっても、自分らしい人生を歩む方がいいのかな。
私はもう、親となり子供も大きくなったから
自分の親に素直に感謝できる。
親と言っても人間は弱い生き物だ。
親になったからと言っても強くなるわけじゃない。
弱いから、人と関わって生きるのだ。
息子たちが成長して、親に恩返しをすることを期待するより
世の中で必要とされて生きてくれればいい。
そして、誰かにありがとうと言われる仕事をして
次世代につなげてくれたらありがたい。
長い長い言葉を書きたくなったのは
調子が良くなったからなのか?
生きることって色々あるね。