毎月の法要日は
親戚が集まって、色んな世間話するんですが~
お茶出し係の私もその場にいます。
内容は、地域の狭い話題とか昔話とか
田舎にある『屋号』で話すので
もう、全然わかんない・・・。
田舎って、小さなマウントの取り合いなので
そんなことどうでもよくないですか??
ってことも話題になります。
まぁ、狭い地域のプライドが
大きな国の戦争にもなる。
人間の負けたくない感情というものは
最初は家族や地域や小さなコミュニティ
そんなところから始まるのでしょうね。
お経の日が終わると、
また次の月のお経まで・・・。
それをずっと繰り返してきているのですが
数年前までは義母さんもその場所にいて
親戚の色々話になったときに
なぜか義母さんはいじられ役?でした。
義母さんが話した事に
「あんたの言ってる意味じゃないのよ。ボケたの!?」
とか平気で言われていてなんかかわいそうで・・・。
義母さんは後で私に
「あんないい方されて嫌だっ」
と私に愚痴っていた時もありました。
その時に嫌だって言えない。でも嫌だったんだね。
義母さんは負けず嫌いだった。
でも言い返せなかった。
私はね~いじられないんですよね。
田舎あるあるの男尊女卑の女性の立ち位置にいたくない。
私には私の人生や価値観があるから
自分の意見も言うのよね。
でも、義母さんはその時は我慢して言い返さないから
いじられる・・・。
でも、確かに話の理解が え?ちがくない??
ってことが増えていて
見当違いの話もするので
周りの人から浮いているって思う時もあったな。
今思えば、認知症の始まりは思うよりも早かったのだろうな。
しっかりしていた人が老化で病気になっていく。
先祖代々のお仏壇の法要日は
色んな人生を経た人が確かに存在していたのを
思い返す日なのだな。
どうして、自分の人生を人と比べて悲観したり
嫉妬したりするのかな。
人間って愚かな生き物よね。
目に見えない何かにすがりたくて
スピリチャルで亡くなった人の声を聴くとか
感じるとか色々あるけど。
どんなに努力した人も、人のために生きた人も
どんなにいい加減で、悪人と言われた人も
結局は死んでいく。
死んだ人の人生は変えられない。
変えられるとしたら、生きてる人の考えでしかない。
亡くなった人がメッセージなど届けません。
届いたと思うのなら、それは自分の都合の良いことだけでしょう。
見えないものをビジネスにして
お金をつぎ込めば、自分の人生が良くなるって思うの?
出来ることは
生きてる自分の思考でしかない。
その思考をどうするかで、自分の生き方があるんだと思う。
私にとっては
血のつながりもなく、会ったこともない夫の先祖。
それでも、私は先祖がいて続く今の子供たちの人生を思って
それを繋いでいくのは大事だって思う。
今生きてる人のために先祖はある。
しっかり生きて、良い先祖になれるように。
手を合わせてもらえるように。
生きてる今を生きる。
亡くなった人のメッセージはこなくても。