最近、よく目にする広告

『介護を見据えた脱毛』っての・・・。

 

芸能人でも男性でも最近

下の脱毛をしていると公言する人が増えてきたけど

一般人でも女性だけじゃなく

男性も全身脱毛をする人が徐々に増えてきている。

 

美容の事もあるけど

将来的に介護になった時を考えて。とか聞きますね。

 

イメージ的に

高齢者→介護→おむつ

と思うと思うけど

 

実際にそうです。

私の母は病気で身体不自由になり介護で紙おむつになりました。

義母さんは体は丈夫ですが認知症で尿意が伝えられなくなり紙おむつになりました。

 

母は、自分で理解して紙おむつを選択しましたが

義母さんは、自分が紙おむつになった認識はないです。

 

認知症になって、紙おむつにするタイミングがなくて

家族は「まだ自分でトイレに行けますから」と

介護施設の方のアドバイスや

紙おむつ券を必要ないと言っていました。

 

親が紙おむつになることなんて想像していないけど

まさかね~

なんて思っても、それは突然やってきます。

 

母は自分で紙おむつを利用する前に

尿漏れが多かったようでパットをよく使っていました。

なので、そこまで拒否する思いはなかったようですが

車いすになって、紙おむつになった時

家族で外食をしたときに、母にトイレに行きたいと言われて

トイレまで付き添いました。

 

紙おむつに漏らしたわけじゃないけど

すごくムレた匂いがして・・・。

すごく「無理だ・・・」と思いました。

 

親の紙おむつを交換している方は、本当にすごいと思います。

匂いと言うのは強烈に記憶に残るので

思い出すと、「無理だ・・・」と今でも思います。

 

母は自宅介護の際には

ポータブルトイレと紙おむつを併用していましたが

毎日、通いのヘルパーさんに朝に来てもらい

ポータブルトイレの清掃と、紙おむつ交換をお願いしていました。

それもそんなに期間は長くないまま

結局、母は病気の悪化で入院になり

そのまま施設入居になったので

紙おむつをして自宅ですごすのは短かったけど

でも、それでも本人も辛かったと思います。

 

一緒に暮らしていた父は

なるべくおむつではなくポータブルトイレで用を足させようとしましたが

昼も夜も、尿意や便意があれば父がサポートしないとなので

夜中は寝ぼけて「うるさい!!」とサポートしなかった時もあったようです。

 

「家で過ごしたい」母と

「家で過ごさせたい」父と

2人の考えは、『家で最後まで』だったけど

在宅介護の現実はそう言うわけにもいかず

父はイライラする回数が増えて

夜中のトイレに「うるさい!!死んでしまえ!!」

と言われたと、母は泣きながら訴えました。

 

通院の際に、車いすから車に乗せようとしても

体が思うようにいきません。

車いす対応の車に買い替えようかと

知り合いの車屋さんに相談したんですが・・・

「車いす対応の車に買い替えても、すぐに使わなくなる家が多いです・・・」

と言われたのです。

 

体が不自由になった家族を高齢の配偶者が見るというのは

本当に過酷な事で

高齢で車いすに乗るようになると、施設に入居する場合が多いと・・・

 

子供世帯と同居していたとしても

子供世帯は働きに出てたりするので

息子が仕事で嫁が義理親の介護をする場合も

昔はあったようですが

最近は、介護サービスが多様化してきていて

嫁が仕事を辞めてまで四六時中介護するというのは

20年前よりは少なくなっているのでは?

介護保険制度が出来て、すごく家族が救われていると思います。

 

それでも

たまにニュースで老老介護殺人や

子供が親を…などあったりすると・・・

情報がどこまで行き届いていたのか・・・

介護は家族でするものと思うしかなかったのか・・・

突然始まった介護に混乱し続けたのだろうかと悲しくなります。

 

父は必死に母を自宅で見ようとしていましたが

疲れからイライラが募ることが増えて

母に暴言を言ったり、小突いたりが増えていきました。

 

そんな時、母の通院の際に父と一緒に私も付き添いをしたのですが

父が少し席を外している間に

母が主治医に泣きながら、「入院したい・・・」と訴えました。

その時には、神経内科以外と

泌尿器科にも行った際に

足にいくつかできている、水泡が

泌尿器科の先生が見ても、危険なものだと判断されて

検査入院という形になって入院になったのです。

 

のちに、足にある水泡は触るとはじけては、またできるもので体の機能低下。

免疫力の低下によるもので、感染症になる可能性があり

抗生物質の投与が必要でした。

 

母の病気は死因には

『多系統萎縮症』となっていましたが

最初は、『五十肩』から始まったものでした。

 

腕の上がりが悪いから整形外科に通っても治らないから

接骨院に通っていた。

でも、調子が悪い。

整形外科ではリハビリをするけどそれが痛くて辛い。

 

そのうちに、何もない道で倒木のように転ぶ。

左手と左足が不自由だからと

脳梗塞を疑って、脳外科に行ったけど原因がわからない。

 

神経内科に行ったらどうですか?と別の病院に行くことになり

『パーキンソン病』を疑われました。

検査をしてみたら、結局はよくわからない。

でも、パーキンソン病かもしれないから

それ用の薬が処方されました。

 

でも、副作用で色々調子が悪いというので

父が独断で薬が悪いとやめさせて

サプリメント的なものを飲ませたりしていました。

 

左手が曲がって、ほとんど使えなくなってきて

この時期に「誰にも会いたくない」

と母は言い出しました。

 

母は若いころは『盲腸』

中年期は『胆石除去』の手術をしていましたが

60代になると、初期の胃がんが見つかって

腹腔鏡手術をしていました。負担が少なく

術後の経過もよかったので

なんど手術があっても、術後は元気になって

友達には「あなたは不死鳥みたいね!」と言われていました。

仲間が多くて、お見舞いも多くて

母の病室はいつも花だらけでした。

 

そして、病気になる3年前に

二度目の胃がんが見つかりました。

最初の場所とは違うところです。

その手術では大きく胃を切ったので

短期間で急激に痩せました。

でも、この時も友達から誘われると遊びに行っていて

術後ハイ?って感じにがむしゃらに遊んでいました。

胃がんの原因は、ピロリ菌感染でした。

母にピロリ菌がいたので

調べたら、兄や私にもピロリ菌がいました。

兄と私は胃腸が弱かったのは

ピロリ菌が原因だと思い

40だいで除菌することが出来ましたが

一度除菌しても、胃がんリスクは消えない。

父はよく山の水とか湧水を

体にいいと幼い私たちに飲ませていたな。

幼い頃は親の食べた物を口に入れてたな。

ピロリ菌は井戸水や親からの感染が

ほとんどです。

早く分かれば早く除菌した方がいい。

癌は初期に見つけるのが大事。

 

それでも母は胃がんの後に

『パーキンソン病』を疑われた後は

とても元気をなくし

曲がって動かなくなった左手を見て

「この手が元に戻るまで友達には会いたくない・・・」

と嘆きました。

 

しかし、手だけではなく足も不自由になると

様々な病院に行って、治る術を探していました。

 

神経内科のある総合病院が、実家から遠かったので

主治医が、「通院が大変なので実家の近くに転院しますか?」

と行ったようで

実家から近い総合病院の神経内科に転院しました。

その主治医は、ALSなどで神経系の論文を発表している

権威のある方だったんでが・・・

 

この先生は今でも本当に嫌です。

何を話しても、話がまともに通じてない印象を受けました。

母がだんだん足が不自由になると

目の前で歩かせて 「これぐらい平気でしょ?」

とか言ったり

少しでも直したいからリハビリしたいと

伝えると

「それは老化現象で、顔のしわと同じで治りません」

とか言ったりしました。

 

介護申請をするときも、なぜかグダグダと時間がかかりましたが

リハビリを受ける為の申請にも

なんだかんだ言ってしぶしぶ書いてもらいました。

進行すると母は

喉に痰が詰まり息が出来なくなる時があって

救急車を呼んだりしたことがあったので

訪問看護を申請したら、痰を除去に

看護師が来てくれますよと

ケアマネにアドバイスを受けたので

主治医に申請書類を依頼するために事情を話すと

なかなか訪問看護を受けたいことを納得しない。

 

「吸痰なら、お父さんでもやろうと思えばできますよ! 家族なら!」

とか言いました。

その前の話しで、「吸痰は気管に傷がつく場合があるから簡単じゃないんですよ~」と

訪問看護で吸痰をしたいと申請をお願いするときに

批判していたのに

80近い高齢の父にやらせようとする!?

この主治医はバカじゃないのか?と本気で思いました。

 

立派な論文をいくつか書いたって

人間として立派なわけじゃない。

本当にそう思いました。

現場を知らないんです。

 

結局、グダグダ言いつつも申請書を書くのですが

いつもグダグダ言う主治医で本当にイライラしました。

理由は全く分からず

持論にも意味を感じませんでした。

 

足の水泡で入院をするときも

その主治医ではなく

泌尿器科の先生が入院を進めたために出来たのです。

 

「泌尿器科で入院を進められました。入院できますか?」

と神経内科の主治医に伝えると

「あ、そうですか。じゃあ入院しますかね~~」って感じでした。

 

でも、入院したら、その主治医ではなく病棟の主治医に変わりました。

外来の神経内科の主治医は大学病院から出向で週1回来るだけなので

病棟に入ると関係なくなりました。

あれから、二度と会わずに母は亡くなったので

今でもネットで調べると

立派な文章を書いて取材を受けているので

週一にアルバイト的に診察してたんだろうな。

 

でも、結局は医者との出会いは相性とタイミングです。

父が診察の際に薬の批判や色々言いたいことをいうからなのか

要するに、患者として嫌われていたんだと思います。

医者も人間です。

 

母は入院してから、水疱の症状が治まり退院になっても自宅に帰ることは出来ず

ショートステイのロングを利用したり

急きょ空きが出た施設に入居になりました。

 

在宅介護時に、絶対に施設には入れたくないと父が言って

入院中もケースワーカーの人が調べてくれても

突っぱねていたので

退院後に自宅に帰っても見れないと父が言ったときに

施設が決まっていなかったので

ケアマネに探してもらって、空きのある施設に仕方なく入ることとなりました。

 

病院から、とても寒い冬の日に移ることになりました。

施設では朝ドラに『わろてんか』をしていたけど

母はそれを無表情で見ていました。

 

その介護施設も、父は気に入らなかったようで

「食事が動物のえさのようだ!」と言って

自宅で手作りをしたのを持って行って

施設の料理とは別に食べさせに毎日通っていました。

 

当時、すでに嚥下がうまく行かず

頻繁に喉に詰まるようで

施設ではミキサー食になっていました。

それが父は気に入らなかったようで

煮込んだ肉などを持って行って食べさせて

「お父さんが作った方が美味しいだろ!」

と言ってました。

しかし、繊維が喉に引っかかり本当に何度も吸引になっていました。

自分が原因だと父は考えない。

介護施設でも、良く思われてない感じが感じられて・・・

 

父は母の行く先々で、思い入れの強さから軋轢を生んでいました。

当時は本当に嫌だったけど

あの時の父は、とにかく必死に母のそばに居ようとしていました。

病気が治ると信じたかったのか…

 

冬に移動した介護施設。夏になりました。

もう、このころは朝ドラを楽しむ気持ちは母にはなく・・・

毎日、無表情で過ごしていて

会いに行っても笑顔はなかったです。

介護施設は、認知症のおばあさんは叫んでいるし

施設のスタッフは忙しそうで・・・

母は悲しみに満ちていました。

それでも春に花見にお出かけした写真が

廊下に飾られていて

その中に母も一生懸命の笑顔で

映っていました。

父はその写真を今もリビングに飾っています。

 

そして、猛暑日に

エアコンが効いている施設だったけど

母はベットの上で熱中症になったのを発見されました。

母は個室を希望していたので、個室に入っていましたが

自分で水分を手でつかんで飲めなくなっていて個室には決まった時間しか

スタッフは見にこない。

気が付いたら、母は意識を失っていたようです。

 

施設から救急搬送で、入院していた病院に運ばれました。

連絡をもらって私はあわてて病院に向かいました。

その時、父はスタッフに

「ものじゃないんですよ!人間なんですよ!!」と言って

詰め寄っていました・・・。

 

初めて、熱中症になった人を見たのですが

運ばれる母の顔は

まるでラップされたかのように、ピーンと張っていました。

汗が全く出ていなくて、毛穴がないかのようにツルツルでした。

 

熱中症は汗が出せず、熱が体にこもる・・・

ベットの上で動かない病気の人は室内でも気を付けないといけない・・・。

その時、母にはもう生きて会えないかもと

不安になりました。

 

でも、入院して処置をしたので助かりましたが

意識を取り戻してからは、ほとんどしゃべれなくなっていました。

父はずっと、施設の対応を批判していました。

 

それでも、入院は3か月までしか出来ません。

回復したら、また同じ施設に戻ることになりました。

今度は冬になっていましたが

個室ではなく、スタッフが個室よりも行き来する

大部屋にしてもらいました。

 

病院の時と、施設の時と

どちらかと言えば、病院の方が対応してもらえて安心感はありますが

母は病院で嫌な事をされていると訴えることがありました。

うまく話せなくて聞き取りにくかったけど

蹴られたり、殴られたりすると・・・。

その言葉を信じた父は、色んな人を疑って

ナースステーションの前を通る時

睨むようになっていました。

 

それでは解決しないからと、誰がしているのかわからないし

私の方で事情を看護師さんに伝えました。

「そのようにするスタッフがいるなら注意しますね・・・」と

言ってくれましたが

母に嫌なことする看護師さんの名前を聞こうとして聞いても

うまく声が出せず、名前のような発言をするとメモをして

このような名前の人がいますか?と確認しても

該当の名前の人は居ませんでした。

 

今思えば、体が不自由になり

スタッフが一人で何かをするときに

手で押さえたり、足で押さえたりが

母にとって、強く感じることだったのか

自分を邪険に扱われているように感じたのか

または妄想なのか・・・

 

カメラを仕掛けて見ようかと思った時もありましたが

結局、やめました。

 

でも、病院では酸素マスクが外れて

顔が水浸しになったり

色々辛い思いもあったようで

父はそれも批判していました。

 

今思えば、批判しても疑っても

スタッフやその患者や家族に優しくいようとは思わないと思う。

やはり、患者が伝えられないから

家族が見てくれる人に感謝を伝えて

思いやることが

一番大事なんだと思うのです・・・・

 

父の行き過ぎた思いは

母の行く場所の環境をどんどん悪い方にもっていきました。

でも、あの時の父は

私に対しても暴言を吐いて

とにかく母の病気に苦しんでいた。

父は父親を戦争でなくして

母親は50代で癌で亡くなったので

介護としては見なかったので

父には母の介護が初めての事で

分からないことだらけだったようで

癌になっても治っていた母が

こんなわけのわかんない病気で悪くなるのが納得いかなかった。

それがどうしても受け入れられなかった。

母と同じく、父も病んでいた。

今はそう思う。

 

紙パンツの話しから

母の辛かった闘病の時期を次々に思い出す・・・。

もう、誰にも話すことないし

共感を得たいとも思わないけど

自分の中で吐き出して、整理をしていきたい出来事なんだな。

 

ちなみに、父が1年半前に大腸がんの手術で入院した際。

病院の対応は私でしたが

本当にスタッフの方には恵まれました。

 

救急隊員の方もよい方で

運ばれた病院の救急対応の方から

消化器内科、外科の方

看護師さん、ケースワーカーの方

すべての方たちが、とても親切で優しかった。

 

私自身も、感謝を伝えていたのもありますが

普通にしていただけでも

嫌な思いをすることは全くなく

それに、父の大腸がんの手術はうまく行き

今でも検査結果は良好です。

 

ステージ4で死ぬかもしれなかったのに

こんなに元気になるんだ~~って感じです。

 

退院した後に、介護保険で入れていた訪問ヘルパーさんは

1年間利用して

父が元気になって、訪問されるのが面倒になったと言って

今は一旦休止中です。

 

もともと、父は料理が出来るので

訪問されても、簡単な掃除ぐらいで

それも、必要ないと思ったようです。

 

父のわがまま発動でしたが

ケアマネの方が言い方で

「今は、お父様の体調もいいようですし

 ここは、ご本人の気持ちを尊重して差し上げましょう。

また、ヘルパーはいつでも再開できますよ。」

と、優しく言ってくださいました。

 

父の大腸がんの出来事では

私自身、出会った方たちみんな優しい方ばかりで

本当に恵まれたなと思いました。

 

母の時の介護は、病院も施設も

人間関係はよくない出会いばかりだったのに・・・。

違う病院とはいえ、何が違うんだろう?

 

自分が高齢になって、介護を受けることになったら。

VIOの脱毛どうこうより

優しく接してもらえるかどうか・・・。

 

私自身以外に、家族の役割が大きいなって思います。

要するに、自分と周りの人間関係の関わり方が

介護を辛いものにするか、ありがたいものにするか

違ってくるんだって思うのです。

 

介護施設で嫌われたら辛い。

それは、今まだ元気なうちに

自分自身が、周りの人間とどうかかわるかなんじゃか?

 

脱毛とか

お金があるとか

そういう事じゃない。

 

結局は、人と人の関りの中に『命』がある。

だけど

母の神経内科の主治医の事は

とても嫌いだったけど・・・

もっと関わり方があったんじゃないか・・・。

そう思うけど

でも、誰の出会いもいいものに変える事は出来ないかもしれない。

それでも、まず身近な家族との関係は

思いやれるものに出来たらいいなって思う。

 

父はわがままで困るときはあるけど

今年のお正月に

孫だけじゃなく、私たち子どもにも『お年玉』をくれました。

『お節料理』も冷凍だけど北海道から取り寄せていました。

 

父には父なりの愛情の示し方がある。

過去にぶつけられた暴言や

母の介護を巡っての事。

色々あったけど

 

私はそれで成長できた!!って思うようにして

自分の人生を進もうと思うのです。