カムカム~朝ドラ~~
年内一旦終了ね。
安子から、るいの時代になり
テンポが変わって
明るい感じになったなぁ~
戦後を引っ張らず、高度成長期の日本の元気さがいいね!
安子の回はほんと、悲しい出来事ばかりで・・・
戦争がどれだけ悲しい時代だったかとひしひしと伝えてくれたな。
お金持ちの家の孫のるいちゃんだけど
お父さんは亡くなり
お母さんを恨んだせいで日本から追い出してしまったことを
胸に秘めて
自分自身の戒めのように、額に傷があるままで生きてきて
そして、その戒めに自分自身が傷つき続けるという。
母を亡くしても、母の思いが刻まれて
視聴者の多くが女性だろうから
娘と母親との、誰もがある何かを
うまく表現しているなぁって思う。
話しはポンと飛ぶけど
毎晩、ストレッチ体操をしてるのだけど
YouTubeで見つけた動画がよくってねぇ~
その方は、女性で
人生相談的な事も同じサイトでしていて
何気なく、昨日は母と娘の関係で悩む人の話を
たまたま聞いたのよね。
「母親が精神的疾患を患っていて
子供の時からそのことで辛い思いをしてきました。
私が結婚して子供を生んだら、母のような子供がうまれたらと思うと
怖くて子供を生むことを考えられません。
私は母とどう接していけばいいのでしょう。」
という内容でした。
母と娘の問題と言うのは
娘の立場が、『長女』の場合に
母親を娘が背負いやすいと話していました。
「私が母をなんとかしないと」
「私が頑張らないと」
長女は特にそう思いやすいとの事でした。
ほんとそうだなぁ~~って私自身が長女なのでそう思いました。
私はもともと、ママが大好きな甘えん坊で
幼い時は、お母さんにべったり甘えて
ママがそばにいないとぐずぐず言う子だったのですが
4歳下に妹が生まれてから
母を助けるために、すごくしっかりした子になったのだと思います。
母は、私が小1の時から働き始めて
妹は2歳の時から託児所に預けられていましたが
妹が4歳になると保育園に行くことになり
母は仕事に行く時に妹を自転車の後ろに乗せて出勤。
帰りは妹を迎えに行って帰ってきましたが
母は働き始めると、もっともっと頑張りたくなったようで
妹の保育園は18時までの預かりなので
迎えに行くと、仕事を早く帰らないといけなくなるので
私が小3から小4になるぐらいの時期に
兄と私に、妹の迎えを頼むようになりました。
当時、小3の私と小5の兄が
自転車で20分ほどかかる妹の保育園に迎えに行って
自転車の後ろに乗せて帰ってくるわけです。
小学生が保育園児を迎えに行って二人乗りですよ。
今の時代じゃありえませんね~~
でも、あの当時の私たちはそれを当たり前と思っていました。
我が家には私が作った当番表があり
妹のお迎えと、お風呂掃除が
私と兄の当番で回すようにしていました。
月水金、火木土と
保育園のお迎えか、お風呂掃除か
どちらかをするのが当たり前でした。
それを妹が小学校に上がるまで続けていました。
妹が小学校になると、妹にもお風呂掃除の当番を
させるようにしたのは
妹も「自分もやりたい!」と仲間入りを希望したからです。
今考えると、私って幼い時から仕切っていたな・・・。
妹のお迎えは小学校が終わって、放課後友達と遊んでいる時も
「妹の迎えがある」と言って、先に帰りました。
いや、妹の迎えって言わないで帰っていたかな??
当たり前のこと過ぎて、当然と思っていたので。
なので、お迎え当番じゃないと
友達と沢山遊べました。
でも家に帰ってきて18時近くに、兄が家に居て
妹が家に居ないと
「お兄ちゃん!妹の迎えは?」と聞くと
兄は「あ、忘れてた」
というのが何度かありました。
今思えば、小6~中学生ぐらいだった兄は
保育園に妹を迎えに行くのが恥ずかしくなってきたのかと思いますが
その時は私も小学生だったので
いい加減な兄に対して、イライラしました。
兄が「忘れてた」という時は、行って!と言っても兄は行きませんでした。
多分、行きたくなかった日なんでしょうね。
なので、仕方ないので
怒りながら私が暗くなった夜道を
自転車を猛ダッシュで走らせて妹を迎えに行きました。
暗い夜道が怖い年ごろなのに、不思議と怖いと思わなかった。
責任感があったんだな。
保育園に行くと
園児たちがみんな帰った保育園のホールで
妹がぽつんと居たりしました。
先生がいる時もあれば、少し離れていて
妹が一人で何かして遊んでいたりしました。
姉として、その姿にギュっと胸が痛み
可哀想になったりしましたが
妹は、私を見つけると
「おねえちゃ~ん!」とタタタ!と満面の笑みで走ってきました。
なんで遅かったの!とか妹は怒ることはなかったので
可愛い妹だなって思っていたのですが
だいぶたって、妹自身は別の感情でいたのを知ったのですが
同じ姉妹でも、見える景色も残る記憶も違うなって大人になり思った出来事でした。
保育園の先生は、優しい人の場合は
「今日はお姉ちゃんなんだね!」と優しく言ってくれたり
厳しい人だと
「6時までに来てもらわないと困りますよ!」と
子供相手に注意する人もいました。
注意された時は、子供なので悲しくなって
帰り道に、涙が溢れるのを必死にこらえて
妹を後ろに乗せているから
涙で前が見えなくなると困るって
必死に泣かないようにして帰った日もありました。
子供なのにって今思うとそうなんだけど
あの時は本当に母を助けることが当たり前で、責任感を持っていたので
純粋に自分の役目と思っていたんだな~~
妹の迎えの帰り道には
道中に木が生い茂って、薄暗くて
猫屋敷みたいなところがあって
行きはまだ少し明るい道も
帰りには真っ暗になっていて
すごく怖い場所がありました。
木がお辞儀をしているような場所があり
そのお辞儀をした木が怖い怖いと、
「木が見ているよ怖いよ」と
妹はよくいいました。
怖がってぐずぐず言う妹に
「お姉ちゃんの背中で顔を隠しな!!」と
怖くないよ!!お姉ちゃんがいるから!!
って本気で思って、
妹を守るんだ!と強く思って
その道を通り過ぎていました。
今思うと、自分だって小学生。
怖いはずなのに
怖いって言えなかったのは、妹が怖がるからなんだろうな。
その道を抜けると
急な坂がある場所があって、その場所になると
妹をおろして、妹と歌を歌って上るのが定番でした。
そこで、姉のやることは・・・
妹に自転車を後ろから押させて
私が自転車に乗って登りきる!
という技でした。
今思えば、二人で自転車を押しながら歩けば?って思うけど
なぜか、私はそこではスパルタでした。
「いつも~小さな~~」のアニメのソングを替え歌にして
その歌を歌うと、妹は自転車を降りて姉を「いつも」押す!
というのがお迎えの帰り道のルーティン。
坂を上り切るとまた妹を乗せて走ります。
あの時はそれが当たり前でしたが
それも何年もたってから妹に
「一緒に歩けばよくない?あれ、すごく嫌だったんだよ!」
と言われたんですよ。
まぁ、妹の記憶は
殆どが姉がきつくて怖かった。になっているので
私って、しっかりしていたよりも、威張っていたのかもしれないです。
強くなるはずが、キツくなっていたんでしょうね。
まだ子供ですからね〜
でも、当時の私はとにかく母の代わりになろうとしていた。
母の帰りは18時を過ぎても当然まだで
19時ならいい方で
20時過ぎるのもありました。
当時の父も働き盛りで、帰りが遅かったので
我が家は親がいない夕方から夜の時間が長く
そして、帰ってきた母は夕飯の準備で
いつもバタバタイライラしていました。
小学生だったので、料理はまだそんなに出来なかったけど
お腹が空くと冷蔵庫にある
ホモソーセージや、炊飯器の残りの白飯や
卵かけご飯は、空腹の定番でした。
リンゴとかあると、小学生でも自分で剥いて食べていました。
私たち兄妹は小学生でみんなリンゴを剥いたり包丁を使ってました。
道端でむしった紫蘇の葉を
天ぷらにしたり。あれ美味しかったな〜
親が帰る前の家の中は、子供だけだと殺伐として
お腹もすいているし、些細な事でケンカがよくありました。
たいていは、兄と私がケンカになり
兄は叩いたり、蹴ったりもあったので
すごく嫌だったなぁ。
四の地固とかプロレス技をかけられた時は
悔しくて殺意すらわいた…
兄とは、私が中3か高校生ぐらいになると
ほんとに些細な事でケンカになり
その後長く何年か口をきかない時期がありました。
本当に大嫌いだって思っていた時期がありましたが
兄が結婚したぐらいからは
兄は穏やかになり優しくなりました。
今では、兄妹のグループLINEでよく話すし
お互いの誕生日に「おめでとう~」と送りあっているので
まぁまぁ仲いい方かもしれないです。
母の働き方はどんどんやりすぎになり
とうとう、管理職とか営業トップとかになっていました。主婦業が疎かになり
仕事の帰りが遅いことが多くて
小学生の時は、近所の友達のは親から
親がいないうちには遊びに行ってはダメと言われてたらしく
友達から仲間外れにされたりしました。
専業主婦が多い時代だったから
母の帰りが異常に遅くて
変わり者に思われてたみたいです。
当時は父の会社の社宅だったから
主婦ネットワークがやばくて
母はそれに馴染めなかったので
働きに出てたのもあるみたいです。
それに小学生に保育園時を迎えに行かせるなんて、変わってますからね。
昭和には差別的態度はあからさまでしたね。
学校の友達でも親子関係で悩んでいる子がいたので
よく放課後に話したりしていたなぁ~
夫婦喧嘩とかうちも激しかったけど
その友達の家は両親は離婚しちゃったけど
両親が出ていったマンションにしばらく1人で暮らしてたなぁ。
色々荒れた時期もあったけど
今は結婚して子供もいて
なかなか会わないけど
でも、離れた場所に住んでいても
ずっと友達な
子供時代の同志みたいな。
親がごちゃごちゃした家の子って
ちょっと人生の寄り道が多くなるなって思うのです。
別の友達も、両親の仲がうまくいかず
親との関係が悪かったのですが
親の暴力で骨折とかしてたり…
その子は、中学でグレて高校に行かず
本当にグレていたので
悪さをして更生施設に入った時期もありました。武勇伝みたいに聞かされたな。
父親がまともに働かず
母親が働いていたから喧嘩とか
すごかったみたい。
でも、両親は離婚はしなくて。
数年前に、その父親が亡くなったと連絡が来て
遠方だけとお葬式に行ったな。
私の母の葬式にも来てくれて。
家族ぐるみの付き合いで
母親同士がママ友だったから
お母さんとも私はメル友だし。
その友達はかなり回り道をしながら
海外とかも行って、
中卒のままにならないようにスキルも高めて仕事に生かしてる。
私の数年後に結婚して
子供もいて、いいお母さんしてる。
でも、夫婦仲はいまいちな時期があって
夫婦げんかで警察を呼んだとか言ってたな・・・。
子供時代に強くなろとキツくなった影響で
夫婦喧嘩も激しいらしく
首絞められたから警察呼んだとかさ…
親子関係の影響って、長く続くなってほんと思う。
さてと、子供時代は
妹が保育園を卒業するまで
お迎えの仕事をちゃんとやりきって
母の仕事を助けるかのようにしていた長女の私ですが
高校生ぐらいになっても
母が仕事中心でいたので、母がいない時に
料理を作ることが出来るようになっていました。
中学ぐらいから料理本を見て作っていましたが
高校生になると、自分でお弁当を作ったり
母がいない時は兄の分も作ったり。
洗濯は、子供全員がそれぞれ自分のは自分で洗っていました。
母はたまに1週間泊まり込みで
仕事に行くとかがあり
父親が単身赴任でいない時期だったから
子供3人置いて、母親が家を何日も留守にする時
母は一万円を置いていくので
それで私がやりくりしてました。
残りはお小遣いになるから
節約したり。
今思えば、お金のやりくりが
かなり身についたな〜
てか、やばい母親だったけど。
母の仕事の邁進は、私が成人しても続き
勤続20年を節目に退職しました。
その前に父の退職金で
一軒家を買ったのが、私が26歳の時でした。そこは2度目の一軒家でした。
一つ目は母の地元の田舎に私が中2の時に新築しましたが
東京住まいから健康のためにと
東京から田舎に引っ越したのですが
風土が合わな過ぎて
住んで8年ぐらいで
母の転勤を機に地方都市に引っ越す事になりマンションに住みました。
父はまだ単身赴任で
兄は進学で一人暮らし
だから一軒家は手放す事になり、
マンション住まいを経て
父が早期定年退職をするので
家を買う事になり
それが今の私の実家となりますが
私は29歳で結婚しているので、実質3年しか
実家には住んでいません。
親の生き方で子供を振り回していたなと
不安定になるのも仕方ないよなと
今思うとそうなんですが
ある意味、強くもなりました。
結婚して子供が生まれたら
実家にはよく行っていたので
むしろ、子供たちにとっては
幼い時の遊び場みたいな感じで愛着があるみたいです。
兄は今の実家には
一度も住んだことがないです。
妹は私よりは長く住んでいましたが。
一軒目の実家には
誰も愛着がないけど、
あの8年は子供みんなが
精神的にきつかったな。
両親は、今の実家を終の棲家として買ったのですが
私たちには愛着があまりないので
その土地にも、友達はいないので
親亡き後に、空きやになるなと思っていますが・・・。
今は父が一人で住んでいます。
退職金で買った、終の棲家。
母が亡くなった後も
思い入れがあって、残したい気持ちはわかりますが・・・。
なんとも難しい問題です。
思い返すとかなり色々あったな。
母が、すごく私たちに色々課したというよりも
私が母を助けたくて、自分から色々していたように思います。
当番表も、新学期になると何度も作り変えていました。
でも、自分が子供を生んで育てていくと思ったのは
小学生の子に、保育園児を自転車で迎えに行かせるって
かなりハードじゃない???
しかも、東京に住んでいた時代なので
色んな人がいると思う。悪い人にあわずによく乗り越えたな・・・。
私は、ほんとに悪意ある人に出会う確率が少なくて
でも、妹は変態おじさんに声をかけられたことが2度ほどあります。
ある時、私が妹を連れて友達と遊んでいた時
妹がふと離れた場所にいて
妹を呼ぶために大きな声で
「早くこっちに来なよ!」と言いながら妹のそばに行くと
見知らぬおじさんが、急いで逃げて行ったことがあります。
妹に、あの人は?と聞くと
「あのおじちゃん・・・ちんちん出して、こっちおいでしてたの」
といったことがありました。
妹は、ボーっとした子だったので
変態おじさんに目を付けられやすいタイプだったようです。
しかし、そばで怖い姉が大きな声で呼んで
助かったという事です。
性被害に合わずにすんでよかったよ。
私は、幼い時から妹を守るためと母を助けるために
かなり気合を入れて生きていたせいか
見た目的に、変態や痴漢が寄ってこないタイプのようで
なんなら、小学校の時には
スカートめくりする男子を、手を引っ張って叩きつけて
泣かせたことがあるので
男子から見ても、こえ~女子だったことでしょう・・・。
なんなら、今でもなよなよしている男を見ると
イラッとします。
ブチ切れると怖いから
夫は私が怖いと思う。
若い時は癒し系女子に憧れましたが
私は、癒し系は無理ねって思います。
なんにしても、ボーっとした妹が
無事に大きくなれたのは私の功績もあるのでは??
今もなんかボーっとしてるからな。
坂道を押させたのも
甘えてばかりではいかんぞと
姉なりの厳しい優しさってことに
気が付いてほしいもんです。
妹も記憶が自分都合になってるから
子供時代は寂しかった。
だから、遊び回る事しかなかったと
グレた子特有の言い訳したりするもんな。
妹も思春期になかなかの衝撃を
親に与えてたなぁ。
思い返すと、母の生き方ってのは
娘への影響があるな。
私にも妹にも。
そうそう・・・
るいちゃんみたいに
私にも顔に傷があります。
幼い時、兄と外で遊んでいたら
せいたずらで背中を押されたのですが
転んだ先に、尖ったのがあり
そのまま顔に刺さりました。
その時の記憶は転んだ寸前で止まっていますが
母が忙しそうにしていたのを見て
子供だけで遊んでいたのも記憶しています。
物心つくと
私の顔には傷があるのが分かりましたが
当時の病院では絆創膏ぐらいで
傷を消すような形成外科には連れて行かなかったのかな。傷は残りました。
ある程度大人になった時に、治せばよかったなと思うけど
若い時は見えると「どうしたの?」と聞かれることもありましたが
年を取ったせいか、しわ?みたいに見えるのか
ほとんど言われなくなりました。
自分も気にしてないから
気に留めないのかな。
まぁ、傷があっても男の子と付き合ったり
結婚もできたので
まぁいっか。と思いますが
気にしていた思春期の時代があったので
直したらよかったのになぁ。
お母さん頼むよ。
母も、朝ドラの安子のように
家族のためにがむしゃらに働いていたのに
私も、るいのように
お母さんに「嫌いだ!」と思ったり、言ったりしたこと
あったなぁと思います。
特に10代後半は、母が嫌いだった。
でも、それが自立への道なんだろうな。
一番身近で、自分を支配しているのは母親で
娘にとって、母親は近いけど、敵みたいな存在で。
超えようと思ってみても、超えられないんだけど
共依存しやすいのだろうな。
長女だから、背負うものも多かったけど
まぁ、強く生きてこれてるから
いっか。とも思う。
でも、若い時はメンタル弱くて色々回り道もあったな
親からの人格否定は何度もあったし。
今は母から否定されなくなり
楽になったなぁ。
そういえば、YouTubeの女性の人生相談の回答なんだけど
「母親の人生と、自分の人生は違うんです」
という事でした。
母親の影響で、自分の人生をあきらめたり背負ったりしなくていい。
親と自分は違う。
自分の人生を生きてください。
という内容だったかな。
私も、母の介護の時期に
「自分には親はもういない」と思う事で乗り越えられた。
いないと思うのは意識だけで
実際には背負って様々なことしないとなんですが
やるべきことはやるべきことでするけど
人生を親と関連付け過ぎないこと。
そして、母が亡くなってさみしい思うもあるけど
母が亡くなってからの方が、母への感謝が湧いてくるので
私は親から自立できたのかなって思う。
親ありきの人生なんだけど
親をちゃんと見送ることが出来たら
それは自分の人生をちゃんと生きていることって思うな。
だから、子供が親より先に逝かない。
それが何よりの親孝行なんだけど・・・・
世の中には順番では語れないこともあり。
生きるってことは
それだけで、すごい事なんだよね。
人生は色々あって
面白い!
困難はミッション。
乗り越えたらクリア!
次のミッションはすぐ来るよ。
だけど、今は自分の人生より
我が子の人生を守ってほしい。
自分より、大事な人生があると思えるのは
胸がギュッとするけど
いいもんです。
生きてるだけでも十分すごいよ!