高校3年生の受験生の次男。
今日から冬休みに入った。
全国的に冷え込むので
冬休みになって、学校に登校しなくていいというのは
気が楽なのかもしれないけど
大学の資料などのチェックや現実的な準備をしていると
急に元気がなくなり
「不安だ・・・」とつぶやく。
思い出せば次男の高校受験が本格的になった3年前。
毎日のように塾もあって
週末は夕方から夜まで長く
大変だなぁと思っていたけど
当時は母が入院していて
日に日に弱っていく状況だったので
次男の受験と母の病状と同時に進むような
母であり、娘であり
心が混乱していた。
高校受験は3月の初めにあるけど
2月の上旬には
主治医から、母の余命宣告をされていた。
そして、高校受験の10日前には
父と兄と私と妹と
家族がそろってもらい主治医から余命宣告について
しっかりと説明をされたんだ。
「2~3週間・・・。もしくはもっと短くなるかもしれません。」
次男の試験が先か、母の命が先か・・・。
今思うと、壮絶な状況だった。
でも、母は目が開けれなくなっても、声を出すこともできなくなっても
高校受験の時期を過ぎても生きていた。
そして、合格発表を待っていてくれて
次男と一緒に
母の病院に行って、目が開けれない母に
「おばあちゃん。合格したよ」と伝えた次男。
母は目を開けることもできなかったけど
静かに聞いていたようで、反応はほとんどなかったけど
次男が合格するのを待っていてくれてありがとうって思った。
そして、母は次男や他の孫たちが春休みに入って
学校が休みになったタイミングで旅立った。
私はPTAの役員の任期満了と校長先生の退職を兼ねた
お別れ会の飲み会が通夜の日と重なり行けなかったけど
孫たちは全員集まることが出来た。
母はずっと、自分が母親として至らなかったと後悔していて
その分、孫たちにとても愛情を注いでくれた。
特に、長男に対しての思い入れは強いと
ずっと言っていて
誰がお見舞いに行っても母は目を開けることが出来なかったけど
なぜか、長男がお見舞いに行って声をかけると
目が少しずつ開いていき
そして、大きく見開いて見ようとしていた。
焦点は定まらない様子だったけど
確かに、長男が来たことを認識して目を開けていた。
本当にそれはびっくりした。
余命宣告から亡くなるまで
何度か母のお見舞いには行ったけど
長男が行った時だけは母は目を開けたのだ。
そして、亡くなる当日の昼に
私が一人でお見舞いに行くと
母は大部屋から個室に移されていて
酸素吸入を口から鼻に差し替えていて
目は全く開けず、声も出なかった。
実は前日もお見舞いに行ったけど
その時は、目は明けなかったけど
ずっと「うーうー」言っていて
それが心配で看護師さんに伝えると
「多分、どこか痛いのかもしれません」
と教えてもらった
今思うと、口から送られる酸素量があってなくて
苦しかったのかもしれない。
口から鼻に入れ替えたことで
少し楽になったように見えた。
どうしてあげることもできない。
でも母に、全員の孫の名前を言って
「お母さん。よろしくね!」と伝えた。
母はきっと、孫を全員見守るつもりなんだろうと思ったから。
そして、その日の夜中に母は旅立った。
次男と同じ高校受験だった妹の子も合格していて
2人の合格を知って安心できたかなと思った。
大学生だった兄の子や
高校生と、高校生になったうちの子や
妹のうちの子は高校、中学、小学校とそれぞれ入学だった。
みんな、ちゃんと成長の過程で母の愛情を
おばあちゃんの愛情をもらって大きくなった。
私たち子供3人は、幼少期のさみしさとか色々あったけど
孫たちは愛情深いおばあちゃんがいてくれた。
親以外からもらえる愛情は
その子の生きる強さになると思った。
長男の大学受験の合格は生きてるうちに伝えることは
出来なかったけど
長男はずっと「おばあちゃんは優しかった」と心に残っている。
次男は父方のおばあちゃんは
認知症で何もわからないし
私の母はもういないけど
受験生として、不安と大変さの中で
居なくなったけど、おばあちゃんの愛情を受けているかな?
少し、鈍感気味なタイプなので
ちょっと色々時差があって・・・
長男とは感じ方が違うみたい。
その分、親として母親としてしっかりしないとって思う。
次男の受験の遠征は一緒に同行する予定だし。
受験要項もプリントしたり・・・。
長男の時は遠方でも一人で行かせたからなぁ~
要項とか私は見なかったし
「これ入金お願い」とか
「ここに泊まる予定だよ」とか
その要望に対して、お金を出していたって感じで。
でも、次男は次男なりに手がかかるけど
一緒に遠征に行く受験になるとしたら
それも母としてはやりがいなのかな~~
思い出すと、母の事
なんか遠い思い出のようで・・・
でも、見守っていて欲しいなって思う。