たまに、Twitterトレンドを見るんだけど
SnowManが入っていること多いなぁ~
今週、ちょっとTwitterで
櫻井君の発言が波紋を広げているのを見たんだけど・・・。
元日本兵の103歳の男性に質問した内容が
誹謗中傷の原因になっている。
その番組は見ていないけど
Twitterでは動画がアップされていて
真珠湾攻撃で米軍の軍艦を撃沈させたとき
米兵に対しての思いを正面から聞いてしまったようだ。
この発言の真意はわからないけど
当時は『命令は絶対』の状況で
嫌だとか、出来ないとか
そういったことはなかったのだろう。
現代は、些細な言葉のかけ方も
刃物扱いされて
有名人が放った言葉を集中的に攻撃する。
顔の見えない人間が、匿名のみのをかぶって
言いたい放題。
SnowManが増員すると決まった時から
デビューしてから
何かの発言や行動で
どれだけのこの『顔の見えない攻撃』を
された来たのかと思うと
彼らの今の活躍を見て、どれだけのことを
メンバーと乗り越えてきたのかと
胸を打つ。
SnowManが櫻井君の番組で共演する時も
嵐という偉大な先輩の背中をどれだけ追いかけて来たかと
真っすぐな瞳で受け止める様子を見て
嵐を背負ってきた櫻井君の思いもまた
どれだけの思いだったのかと想像する。
嵐が活動休止になっても
活躍の場が多くあって
その中では、自分の言葉で発言する様子が感じられて
今回の報道番組も
率直に、直球に質問したのかな。
でも、今は世の中がピリピリしているから
少しの発言の表面を切り取って
攻撃の対象になる構図に
有名人なら何を攻撃してもいいだろうという怖さを感じた。
私の父の父親は
父が5歳ぐらいの時に
沖縄の周辺の海で、船の上で亡くなったらしい。
当時、父の下には幼い妹が二人いて
父の母は戦争未亡人になった。
再婚はせず、近くに住む親せきに頼りながら
3人の子を成人まで育てた。
当時の話しで
父は身を寄せた親戚が暑い夏の日に
カルピスを飲んでいるのを心底羨ましく思ったそうだ。
身を寄せている自分たちはもらえなかった。
だから、父は80を超えた今も、カルピスを見ると
嫌な記憶がよみがえるそうで
一度も飲んだことはない。
この話は子供の時から何度も聞いてきたので
私たちは父の子供だけど、戦争を経験していないから
全く共感できず
お中元にもらえるカルピスを美味しく飲んでいた。
それぐらい、親の戦争時代の経験は
子供には理解できないもんなんだ。
父は高校を卒業すると、家族のために身を粉にして働いて
実家に仕送りを続けたそうだ。
就職した会社では働きながら大学も行けたので
大学の勉強をしながら働いた。
当時の日本でも、高卒と大卒では給料が違ったので
父は大学に行くことで、給料があがること
上に行けることをわかっていたんだな。
退職するときには、地位も高かったので
退職金もとても多かった。
そのお金を元に、転勤族だった人生で
終の棲家にするために、今の実家を購入したんだ。
そんな苦労が色々あって、父は一人暮らしになっても
実家を手放さない。
結婚当初、母は父の給料の半分を
実家の仕送りにしていたからお金がなくて苦労したと言っていた。
子供が3人いたから働きに出ないで
洋裁の内職をよくしていて
綺麗なボタンを見つけると、欲しかったのを覚えている。
いくつか転勤で引っ越した先で
東京に住んだ時、私が小学校1年生になる時に
母は外で働き始めた。
「専業主婦を10年やったから!」それは母がずっと言っていた。
今思えば、主婦10年ってすぐじゃね?と思うけど
母のその10年は、お金に苦労して我慢を重ねた10年だったんだろう。
父の母親は、私は5歳ぐらいの時に胃がんで亡くなっていた。
父は母親をとても大事に思っていて
何が何でも直したかったそうだけど
当時のガンは死を意味していて
幼いながら、母に連れられておばあちゃんの病院に
お見舞いに行ったのを覚えている。
幼い妹を背中に背負って
幼い兄と私を連れて、病院にお見舞いに行く時の
母の顔はいつも元気がなかった。
でも、病院に行くと、売店で買ってもらえる
チョコとバニラのマーブル模様のアイスが大好きで
それが食べたかった。
アイスを食べるときは母はニコニコしていた。
おばあちゃんが病気になる前。
一人暮らしのおばあちゃんが住む父の実家に
夏になると遊びに行っていた。
おばあちゃんは、私の事を兄や妹より可愛がってくれていて
幼いながらも、それを肌で感じていた。
私が一番、父に顔や性格が似ていたからかも?
おばあちゃんは私に折り鶴の絵柄の浴衣を作ってくれて
私がすごく喜ぶと、すごく嬉しそうにしていた。
海の近くの家で、歩いて海まで行けるから
私はとても海が好きだった。
「◎ちゃんはいい子だね。可愛いね。」と何度もおばあちゃんに言われて
私は自分の事をいい子でかわいいこなんだと
思い込んでいたような気がする。
親以外の無償の愛情ってすごいな。
ある時、おばあちゃんが部屋で泣いていた時があって
それを疑問に思って、お母さんに尋ねても
何も言わなかった時がある。
後から知ったのだけど
一人暮らしになった母親を自分たちと暮らそうと
父が言ったそうだ。
でも、おばあちゃんはその家を出たくなかったのだろう。
母は引き取ることを不安に思っていたのかも。
あまり、お姑さんとうまくいってないのは
子供心に思っていた。
でも、私はおばあちゃんもお母さんも好きだったので
どうして仲良くないのかな?って不思議に思っていたな。
結局、そのあとにおばあちゃんは胃がんが分かって
入院することになったのだけど
おばあちゃんが亡くなる寸前に
病院に行ったのも覚えている
私の事がかわいかったから、おばあちゃんに
私を会わせたかったんだろう。
でも、すごく苦しそうにしていて
首を左右に振りながら、ハァハァ言っていたのが
どうしてなのかわからなくてきょとんとしていたと思う。
お父さんやお母さんや周りの大人が悲しそうに見守る中
おばあちゃんと最後に対面して
その後、病室から子供は出された。
次に思い出すのは、お葬式だ。
狭いアパートだったけど
おばあちゃんが布団の上で寝かされて
動かなかった。
青白くなった顔などを見ても
何で寝てんだろう?って思ったのを覚えている。
兄と二人で、アルコールの脱脂綿で
おばあちゃんを拭いたのも覚えていて
なんだかそれが面白くて、きゃははと笑いをこらえながら
拭いたのだけど
父が泣き崩れていたのを記憶している。
母が言っていたのは
おばあちゃんが亡くなった後、父は元気を無くし
落ち込みがすごくて、とても大変だったそうだ。
その後、2年ほどして東京に引越しても
毎年お盆には、田舎のお墓にお参りに行っていた。
新幹線がない時代で、特急列車と鈍行を乗り継いでいく
お墓は、実家からは遠いけど
海の近くという事で、父が立てたお墓だった。
毎年、そのお墓に行くと
お墓の近くの海で遊んだ記憶があるけど
おばあちゃんの家の近くの海はとてもきれいだったのに
お墓の近くの海は港が近いせいかとても汚れていた。
そのうちに、海に行くこともなくなり
でも、あれからずっと毎年お墓参りには行っている。
今はそのお墓には
おばあちゃんと母が入っている。
そんなこともあるからか、父に早くお墓に来て欲しいと
母が呼ぶのか
父は昨年は車の事故に、大腸がんにと
生死にかかわる出来事があった。
それでも、生命力の塊の父は元気に「まだ死なないぞ!」といっている。
子供の時から、父親を戦争で亡くして
母親と妹を自分が働いて養ってきた父は
自分の父親を知らない。
遺影に飾られた、父の父親
私たちの祖父はとても若く、軍服を着ていた。
今で言えば、イケメン男性だった。
その横には50代の若さで亡くなった祖母が微笑んでいた。
おばあちゃんは、きっといつも私を守ってくれているのかなと
そんな気持ちが子供の時からなぜかあって
やっぱりなと思うような出来事もあったけど
でも、おばあちゃんが亡くなった年に近づくと
50代半ばで亡くなった戦争未亡人のおばあちゃんの人生は
辛いことも多かったんだろうなと思う。
息子である父をとても溺愛していたと
母は言っていた。
そこは嫁と姑の確執もあったと思うけど。
今となれば、同じお墓に入っているんだもんね。
お母さん、がんば!って思うしかないよ~
私が20代の時
家族旅行で沖縄に行ったことがある。
父はどうしても、沖縄の戦没者の石碑に行きたかったようで
兄は都合で行けなかったけど
父と母と妹と私の4人で沖縄に行った。
沖縄の海は青くて広く
この海の遠く沿岸で、まだ20代の若者だった祖父は
妻と幼い子供3人を残して、戦死したんだなと・・・
そう思っても、当時まだ独身の私には
あまり心には何も感じなくて
沖縄で食べたパイナップルが美味しかったなぁとか
米軍基地ってすごいなとか
観光目的で戦没者慰霊の感覚が少なかったような気がする。
今、結婚して息子が二人いて
当時の祖父の年齢に近くなりつつある息子たちを見ていると
この平和は、沢山の犠牲の上にあるのかな・・・
と思うと、まだ祖父は生きていたかっただろうなと
その当時に若者の無念を思うと
戦争の悲しさを思う。
時代だからとか、当時はみんなそうだったからとか
私は父の話しにいつもそんな風に思っていたな。
祖父は、戦艦などの大きな船ではなく
その周りにいるような、漁船のような船で出撃していただろうと
父は言っていた。
戦艦でも追撃されて助からない船員が多かったのに
漁船で海に出て助かるわけないだろう・・・。
そんな命なの?
絶対に助からないってわかるような状況で
船に乗せられてアメリカに挑んだの?
当時の小さな船に乗って出撃した船員は誰一人生きていないだろう。
祖父の思いを知ることはないんだ。
多くの日本兵が亡くなったけど
真珠湾攻撃では多くのアメリカ兵も亡くなった。
どちらにも、人生があり家族がいただろう。
戦争において、敵や味方ではあったけど
家族にとって見たら、大事な人には変わりない。
一つの命があった。
それが当時はとても重くなかった。
もしかしたら、武器よりも人の命は軽かったのではないか?
遺骨もない、遺品もない
祖父の持っていた物は
何一つ家族の元には戻らなかった。
写真に写る祖父は、真顔なので
笑顔も知らなかったけど
そういえば、幼い父を抱いて
砂浜で笑って居る祖父の写真を見た記憶があるな?
あの写真、どこで見たっけ?
父の人生は
父親を知らない人生。
それでも、今は私たちの父親として生きてきた。
わがまま爺さんなんて言って悪かったな・・・。
でも、マジでほんとわがままなんだけどね・・・。
父親がいなくて
母親を早くに亡くし
妻に先立たれ
父の人生は、戦後から始まったけど
その戦後の生き方の後遺症が残る父の娘として育ち
子供の時の記憶を思い出すと
大人になってわかることって色々ある。
私は櫻井君の発言に対して
誹謗中傷する人の事は理解できないけど
当時の日本兵は
アメリカと戦うことは使命であって
勝つことだけを教えられて
行くしかなかったんだろうなと思う。
漁船で海に出た祖父も
絶対に勝つつもりで
そして、勝って家族のもとに戻るつもりで向かったんだろう。
その時に、アメリカ兵という人を殺す考えではなく
ただ、勝ったら家族のもとに帰れる。帰りたい。
それだけだったんじゃないかな。
質問の言葉は率直すぎて
人の共感を持てなかったけど
誹謗中傷する人間の言葉は
十分すぎるほど刃物だ。
顔の見えない凶器のような発言は
戦争と同じく
繰り返しちゃいけないんじゃないかと思う。