眞子さまが結婚して皇室を出て
夫である小室さんと共にアメリカに移住された。
一連の騒ぎから4年ほど・・・
様々な意見があるだろうけど
胸の痛くなる出来事ばかりだった・・・。
個人的には、ここまで状況が良くない場合は
本当に結婚することがいい事なのかどうなのかはわからないけど
お互いを思う気持ちをお互いが一番に優先したからこそ
結婚に至ったのだと思う。
私自身、結婚して20年以上。
今までも今も
結婚に対して思うことは、『幸せだ』と思う出来事は
ひとつひとつ散りばめられてはいるけれど
大きなくくりで振り返ると
思うよりも、『試練と困難』を乗り越えて来たなと思う。
試練や困難は人それぞれ感じ方は違うかもだけど
ここ8年ぐらいは親の病気と介護の連続で
その真ん中に置かれ続けたことが試練と困難だったなと思う。
小室さんは一人息子でもあるので
日本に残した母親のこれから先も考えて担っていかなくてはいけない。
眞子さんはそれに寄り添いながら、自分自身の両親の事も
縁を切るわけではないので、親を思うと色々とあるだろう。
でも、今は二人の思いがすべて。
結婚ってそういうものかもしれないけど
お互いを何が何でも一緒に居たい相手を思い
貫いたことは、相当な思いなんだろうなって思う。
幸せかどうかは、何にそう感じられるかどうかでしかないから
どうか『生きて』欲しいと思う。
私自身が
結婚は何のためにするのかと聞かれたら
「生きるため」と答えるから。
この答えには、息子に質問された答えではあるけれど
「お母さん。結婚てさ~幸せになるためにするんだよね?」
と何年か前に、なんかの話題で聞かれた時の答えだ。
私は
「生きるためにするんだよ。幸せになるためにするんじゃないよ。
まぁ、たまに幸せと思う時もあるけど
でも、幸せになろうと思って結婚するより、生きるためにする方が
意味があるんじゃないの?」
と答えて
息子は「夢がね~な~・・・」と呆れていたけど。
幸せになるために結婚したい人がほとんどなんだろうな。
でも、私は結婚してから幸せって思うより少なかった。
しばらくずっと
夫の家と、自分の育った家との違いに衝撃を受けて
もう、本当に嫌で・・・嫌で・・・仕方なかった。
義父母が疑問に感じていない様々なことが
私には疑問だらけで
もう絶対にムリだと思ってどうしようもなかった。
「逃げたい。やめたい。嫌だ。」
そんな風に何度も思った。
夫と二人で過ごしているうちはわからなかったけど
結婚して分かることが多かった。
予想を超えてきた。
ド田舎の農家の、本家の家ってものを
甘く見いていた。というより知らなかった・・・。
特に夫の家は、謎行事の残っている地域の家で
地域の文化的な行事も、僻地の村に残るようなことが多く
特に、一見『田舎のいい人』の
悪気のない風の発言や行動に、人間不信にもなった。
そして、私は同居して一年後。次男が一歳になったばかりの頃に
病に倒れて入院することになったのだけど・・・
その具合が悪い最中も
私が高熱で苦しいのに、親戚の集まりの日だったので
義父母は私の顔も見に来なかった・・・。
具合の悪い嫁より
集まっている親戚が優先。
結局、実家の母のつてで入院することになり
母が迎えに来て初めて挨拶にと
「いや~どうもどうも」と来たのだ。
(この時の義父母との関係は最悪だった)
私は重い風邪のような症状だったから
義父母は風邪に移りたくなかったのだろうけど
心配する様子も感じられなかった。
これが結婚して4年ぐらいの出来事。
同居して1年ほどの出来事だ。
結局、私は血管炎という病だったのだけど。
もう少し入院が遅かったら内臓疾患になっていたそうだ。
最初は義実家とは離れてアパートに住んでいたけど
長男夫の『長男の自覚』から同居になったのよね。
でも、別棟に台所とお風呂を絶対に欲しいと私が主張したので
2世帯同居になったのはまだよかった。
その分のお金は自分たちでローンにしたけど。
振り返ると、義父母との信頼関係は何年もなかなか出来なかったとも思う。
最初、長男を妊娠したのは結婚して1年半がたったころだ。
実は不妊症気味で、卵巣に難があり
腹腔鏡手術が必要だった。
不妊治療は1年半なので、まだいい方かもしれないけど
田舎の長男の嫁というのもあって
夫の実家に行くたびに
「子供はまだか?」と何度も言われた
義父は「男の子がいいな。よろしく頼むぞ」と何度も言った。
そのプレッシャーが強く、私は早いうちに不妊治療をし始めた。
当時は29歳の結婚は遅い方で
30過ぎて子供が出来るのも遅いとされていて焦った。
そしたら、病院で不妊気味の診断がされて
卵巣の難を治療したら、早く子供が授かると主治医に言われた。
卵巣から排卵がしにくい疾患だった。
入院と手術のことを義母に伝えると
嫌な顔をされて
「そんな悪いところがあるんなら、早くよくした方がいいね」
と言われてショックで
帰り道に泣いた。
手術の日も、来なくていいのに見舞いに来た義母が
おしっこのたまった導尿の袋を見て、「あ~これしてんのね」と言い放った。
もう、見舞いに来てほしくなかった。
不妊治療には、実家の母は寄り添ってくれた。
辛い思いを聞いて、「大丈夫よ」と言ってくれた。
一緒に不妊治療に良いと聞く神社にお参りに行ったり
子宝温泉に行ったりした。
願掛けして一緒に子供が授かるのを願ってくれた。
その間、義母はとてつもなく冷たかった。
いや、どんな感情だったか覚えていないんだけど。
術後の、継続した不妊治療で
卵管への導入が激痛で辛かったり
腹水がたまって辛かったり
何より生理が何度も来て辛かったり。
そんな思いを積み重ねて、やっと子供が授かった時に
嬉しくて、怖かった。
でも、絶対に大丈夫と願った。
夫が浮足立って、喜ばせようと
まだ安定期でもないのに、実家に行きたいといって義父母に話した。
その時の顔も覚えている。
たまたま、少し前に義父の弟が急死したので
その悲しみもあったのもあるけど
夫はそれもあって親を喜ばせようとしたのだけど・・・
「子供が出来た」と言ったら
そうか!おめでとう!と言われるのを期待していたのに・・・
当時は義祖母もいて、義父母と義祖母の3人だったけど
言われた言葉は
「まだわかんないね。流れることもあるからね」・・・だったのだ。
衝撃が強くて唖然とした。
妊娠初期に、『流れるかもしれないね』と言われたのだ。
田舎の素朴な一見人が良さそうに見える人間は
要注意だ。人の気持ちを想像できない人が多い。
その当時、言い返せるほど強くなかった私は
何も言えずに
アパートに帰って泣いた。
夫の事も、憎たらしくなった。
「言うのが早すぎるよ!!まだだめかもしれない時なのに
安定期じゃないのに、それにあんなこと言われて・・・」
おいおいと泣いた。
マタニティブルーも入っていた。
結局、母が気持ちに寄り添ってくれて
なんとか妊娠期間中を乗り越えた。
つわりが辛い時は実家に帰ったり
母がとても助けてくれた。陣痛までずっと・・・
お母さん・・・忘れてたよ・・・。そうだったよね・・・。
その後、ひどいつわりで激やせして
結局生むまでつわりはあって
メンタル的に弱ったこともあったけど
当時の日記に沢山毒を吐いて乗り越えて行った
(断捨離で当時の日記は全部捨てた)
そして、長男は30時間以上の
長い時間の陣痛を乗り越えてやっと生まれた。
すごくつらかったから、生まれた時にワンワン泣いた。
嬉しかったし、元気に生まれて安堵した。
でも、自分のおなかから出てきたのが不思議だった。
母と夫が生まれるまでずっと病院にいてくれた。
(陣痛中は痛くて当たったけど)
妹もかけつけた
父は、生まれてすぐは大変だろうと当日は来なかった。
抜け殻のように疲れ切ってたので助かった。
寝たかった・・・。
分娩台でしばらく休む必要があり
当時は、カンガルー抱っこもなく
ベビーベットを横につけて
私と長男がウトウトと休んでいると、またもや夫がやらかした。
自分の親にも知らせたいと連絡したら
義父母と義祖母が病院にすぐに来た。
分娩台で休んでいる状態だけど
その部屋に3人してどやどや入ってきて
大はしゃぎ。男の子だったから義父も大喜び。
でも、分娩台から、病室に戻って
落ち着いてから来てほしかった。
それを夫に言ったら、
「だって、すぐ来るって言ったから・・・」と言っていた。
夫はいつも空気が読めない人だ。
そんなこんなで、大変な妊娠から出産を経て
全く私の中には、義両親への信頼感がないままだったけど
愛想笑いは出来る人間だったので
まぁ普通に関わった。
その後は、田舎の謎行事にも振り回された・・・。
その後、どうしても嫌だった同居になるのだか
長男が2歳。次男がお腹にいて妊娠8か月の時だった。
今から18年前だ。
次男を妊娠したときに、アパートが手狭になり引越したいと思った。
でも、当時の夫の給料が不況もあり手取り20万程度で
酷い時は20万を切った。
私も働けない状態だったので
その時に、増築して同居の話しになった。
お金がないと、自由がない。
自由がないから仕方ないと、同居を選択するしかなかった。
夫がすごく給料が良くて、私も仕事を辞めていなかったら
同居はしないでいたかもしれないけど
義実家の敷地内に増築したら、土地代の節約になると思った。
それに、長男気質の芽生えた夫が当たり前のこととして
同居を選択した。
そして、身重で2歳の子がいる状況で引っ越しになったのだけど・・・
引っ越しの荷物を整理するのが大変で
母が手伝いに来てくれた。
でも、そばに住んでいる義母は手伝いをほとんどしてくれなかった。
理由は「人の荷物ってわからないから~」だった。
手出しする方がわからなくなると言っていたけど
めんどくさかったんだろうな。義母さんは整理整頓が出来ない人で
もう、その頃には少しずつ認知症も始まっていただろうし(多分)
対応できなかったのだろうけど
母がいてくれたからよかったけど
腹が立って、義母が前にくれた編んでくれた趣味の悪いカーディガンを
その時、捨ててやった。母は苦笑いしていたけど
そりゃそうだよねって思ったみたいだった。
そして、同居して2か月後に次男が生まれて
子育てが大変になったけど
2歳の長男の赤ちゃん返りが大変で
怒ると、義父母の方に逃げて行った。
そして、甘いお菓子を沢山食べさせたりしていた。
近くに住むおばさんも長男を甘やかした。
義父母、義祖母、おばさんと
大人が4人で長男を甘やかして
ご飯前にお菓子を与えたり、欲しかれば色々買ったり
お母さんに怒られたら、こっちにおいでと言っていた。
そのうち、長男はとんでもなく聞き分けがなくなっていき
外で遊んだ長靴で家の中を走り回ったり
外に積み上げた箱をひっくり返したり
お米で豆まきをしたり・・・
「なにしてんのー!」といういたずらをするようになった。
そして、義母や義祖母が怒っても平気でふざけていた。
3歳も近いのに、手がかかると思った。
次男もまだ赤ちゃんで思うように関われず
赤ちゃん返りで仕方ないのかと思ったけど
アパートに暮らしていた時より、極端に悪い子になった。
その時は、私が大きな声で怒ると何とかやめていたので
怖いママになっていった。
義母は「ママが怖いならこっちにおいで」と言ったりしていた。(怒)
そんなある日。
毎日いたずらするし、義母やご義祖母は
「うちの子供たちはこんなことしなかった」と言うようになった。
あんまり悩んでお祓いもしたけど、そんなに効果はなく・・・。
そしたら、義母が言った。
「いい子になるかどうかは親の育て方次第だ!
母親次第なんだよ。
今みたいに悪い子なら、どうするの!」と言った。
長男がいたずらして悪い子なのは
全部母親のせいだと言われた。
ひもで縛って行かせないようにしたらいいかと思うぐらい
母屋に行かせたくないと強く思った。
その日、私は義父母の方においてあった子供のおもちゃを
全部引き上げて
長男には母屋にはもういかないようにと言い聞かせて
自分がちゃんと接しようと思った。
(それでも長男はいく時は行ったけど)
甘やかしてわがままにするのジジババ。
そして悪い子になったら母親の責任。
こんな言われ方ってある??
憤りがすごくて、もう本当に嫌だった。
ここから出たいと強く思った。
でも、それが出来なかった。
最初のうちは、2-3歳で幼いので長男は母屋に行くこともあったけど
そのうちに、次男が動けるようになりサークルに行けるようになると
長男と次男を連れて子供サークルに行ったり
公園に行ったり、ママ友と遊んだりして
ママ友に愚痴ったり、楽しく過ごせた。
子供たちは母親の責任で育てようと思った。
実家の母もとても助けてくれた。
全般的に、夫は『仕事が忙しい』を理由に物理的に手伝えなかった。
資格を取って、独立するまで本当にがむしゃらに働いていた。
でも、ママ友に恵まれたからそんなにさみしくもなく
すごく楽しく子育ても出来た。
公園も海も山もママ友仲間と行った。
大きくなると、どんどん自分の用事で母屋に行くことは長男も次男もなく
ほとんど、食事も別にして行事のみ一緒の食事になった。
中学生ぐらいになると
そばに住んでいるお隣さんぐらいの関りになった。
母屋のおじいちゃんおばあちゃんに甘えることはなかった。
けど、実家の両親はすごく可愛がってくれて
沢山愛情を持ってくれた。一緒に温泉や旅行にも行った。
特に母は、長男が悪い子になると言われて悩んでいる私に
「大丈夫だよ。長男はいい子だよ」と言い続けてくれた。
だから、長男はずっと実家の母の事が大好きで
支えられた。
次男は、長男が行かなくなったのもあり
ほとんど母屋に行かなかったし
育てやすい子だった。悪い子だと思うことがほとんどなかった。
赤ちゃんの時、長男で悩んでいる時は
次男の夜泣きは激しかったけど・・・
とにかく、母屋と物理的に距離を取ると
意味不明の子供のわがままは少なくなっていった。
母親の精神状態ってすごいな。
その後、反抗期はあったけど。
そんなこんなで、主要行事以外は普段は食事は別で
子育てで助けてもらうこともほとんどなく
距離をもって祖父母と同居していたので
長男と次男は、義父母に対して礼儀正しく接してくれる。
甘えた態度で接しないので
義父母からの評判はとてもよくなった。
家で聞き分けなくても、母屋では見せないので
義父母から見て「いい子たち」に満足していたようだ。
長男は特に、愛想も交えて接してくれるので
義父に「お前がここの跡取りだぁ~」とよく言われている。
いや、その前にご自身の息子である長男もいるでしょ?
実は、義父と夫は性分が合わないようで
あまり口をきかない。
なので、孫には素直に言えるようだ。
長男も上手に、「そうだね~ははは」とか言って合わせている。
次男は、必要最低限しか話さないけど
次男は学力が高い高校に行っているから
義父は次男も気に入っている。
義父は、地位や権力のある人が大好きなので。
そんなこんなで
一部だけど、思い出して書いていると
結婚してから一部を見ると
なんて嫌な思いをして来たのかって思う。
でも、当時の私は義父母との信頼関係がなかったからだ。
田舎は、『よそもん』に対して警戒心がある。
私は田舎の生活を知らない、なにもわからない嫁で
よそもんだったのだろう。
料理の調味についても、私の意見は取り入れようとしないなど
(白砂糖より、きび砂糖にしませんか?を却下など)
赤ちゃんのおっぱいのあげ方や
旦那のお小遣いの金額までも色々言われた。
当時は稼ぎが少ないからお小遣いも少なかったので
(3万だったけどね)
子供たちが幼い時、生活に余裕が欲しくて少し働きに出たくて
休日の夫に子供を預けて短時間で働いた時には
義母に
「〇(息子)が休みの日に子供預かったら、大変じゃないの!
体調崩したらどうするの!?」
と言われたりした。 母親は息子がかわいいのでしょう・・。
とにかく、孫や息子(夫)がかわいいけど
嫁の私は男尊女卑のこの家では使用人と同じ扱いだった。
親戚の集まりのお膳も嫁にはなく、最下座だった。
(夫がお膳がないのに激怒して、お膳制度はなくなりオードブルになったことも)
結婚する前はあったお膳は結婚したらなくなったのだからね。
今は、宴会のお膳などなくても
女性用のお寿司を買ってきたり、楽しむ方法はいくらでもあるけど
義母が男尊女卑が当たり前でなんでも夫が上だったので
嫁にご馳走などなく
私は義母以下の立場になって自分の下僕と思っていたのでしょうね。
ど田舎の農家に嫁は来ないのわかるわ。
最近は、そんな家も少ないのかな?女も強くなったし。
田舎の風習ってバカバカしいけど、マジであります。
男はエライ。長男は上位。
女は口出すな。使用人扱い。これが義父もマジの考え方。
そうやって、義母は使えてきたのです。
盆と正月の大きな集まりと
GWの集まり、年末の集まり
年越しの集まりと年に何度も大きな集まりがあって
その準備を、義母は10年ぐらい前に私に丸投げになったけど
私流を作り上げ、苦痛を無くして楽しもう!と考えを変えて
「食べたいものを食べる!」とメニューを決めて
仕出しから、手作りメインにしたり 冬は鍋とか
夏は多国籍料理とか
内輪の場合は、寿司を高級にしたりと
色々好きにするようになって、いつの間にか大変と思わないようになって。
そして、コロナで昨年から宴会の全面中止を進言して
親戚の集まりがなくなりました~~~!!
コロナっていいことも合ったのね~
でも、内輪の法事は2回ぐらいしました。
私が担ったので
配達してくれる美味しい料亭をお願いしてたり
自分でお店選べて楽でした。
友達が経営している洋菓子店に
お土産のお菓子を頼んだり。
本家として行事をやっていて、思ったことがあります。
呼ばれてくる親戚は
接待してもらって、ただで食事食べて、お土産もらって帰って
当然と思うのに、
本家の愚痴を陰で言う。ってことです。
今は義父さんの愚痴がメインですけどね。
色々言いますね。本人がいない時に。
お金出さないけど、口が汚れてるのかな~って思うけど
田舎なんて、人間関係なんてそんなもんです。
それが狭いネットワークコミュニケーション
国民が、首相の悪口を言うのと似ています。
人間など、弱くてずるくて、自分は責任を負いたくない。
自分が一番かわいいのです。
自分を正当化したくて、上の悪口で結束取ろうとするのです。
それを想定したうえで関わればいい。
別に逃げる必要もない。堂々と自分の人生を進めばいい!
おもしろいじゃないか!人間て!
今は
寄り添い続けてくれた母な亡くなり。私に本気で寄り添ってくれる人は
いないけど
その前に亡くなった義祖母さんは、亡くなる前は
通院に付き添って「家族だからいいんだよ」といって
寄り添った私に優しくしてくれて
「おまえさんは厳しいところもあるけど、いいお母さんだよ。愛情があるよ
子供たちもいい子だよ」
と言ってくれて、支えになってくれたし。
義母さんには嫌な事も何度か言われたけど
今思い返すと、
妊娠して「流れるかも」と言われたのも
義姉さんが最初の子を流してしまったことがあって
それがとても悲しかった記憶で心配だったのかなとも思うし。
子育ての責任を
「親の育て方次第」
と言われたのも
それは、本当にごもっともだと思う。
私はその後に、腹をくくってしっかり育てよう。と思ったのもあるし
甘やかす母屋にあまり行かせなくなって
良い面もあったから。
その後、長男が中学生で悪さをしたとき
義母さんの言葉を思い出し
「親の責任だ」と、長男としっかり向き合って
何がそうさせたのかも、すごく考えた。
(学校での人間関係に悩んで色々弊害になっていた)
でも、悪いことをちゃんと反省した長男は
その後、人生をなんでもしっかりとらえる子になった。
ずっといい子じゃないから気が付くこともあったし
親として、すごく自覚になった。
あの時に
「親の育て方次第」と言われたのは本当に良かった。
引っ越しだって、義母さんが手伝わない方が確かに気楽だったし
色んな対応も、年数がたち
経験を重ねたら、「そうだよな」って思えるほど私も成長していた。
人を許せるかどうかは
『信頼関係』と『自分の成長』なんだと思う。
すべての経験が、私の血となり肉となり・・・
知識の上に経験が積み重なって人生になる。
すべて、結婚してから起こった出来事。
全部が結婚して子供を生んだから、わかった出来事。
そして、夫の給料も結婚当初から今は5倍以上になり
夫育ても現在進行中だ。
夫の事も、好きなように生きたらいいと思う。
20年ほどの出来事のほんの一部を書き出してみると
色々あったなぁ
その中で「幸せだな」と思ったことより
大変だったり、悩んだりしたことの方が多かった。
何となく、もったいないけど・・・。
ここから逃げたらもっと楽しかったのかな?
でも、結婚はやっぱり私は『生きるため』にするんだと思う。
私がくじけず生きてこれたのは、息子たちがいるからもあるけど
私自身が逃げたってどこにも行けないって思ったから
だったら、乗り越える方が良かったからだ。
結婚は、最初は2人で始まるけど
関わる人間は
一人の時とは全然違って多い。
関わりたくない人や、どうしても合わない人とも関わる必要がある。
それが切れない縁だったりするので
子供が生まれたらもっと増える。より複雑になる。
でも、それが人生だ。
今だって、私はこれからどんな人生にしようかなって
思ったりする。
こんな田舎の家の嫁だけど
そればっかり背負って生きていくつもりなどない。
私はいつだって『自由になれる』と思って生きているのだ。
『嫁』じゃない
『私は私』なんだから。
ちなみに
義両親と同居してよかったかどうかは
「しなくていいならしない方がいい」と思う。
その方が要らない嫌な思いはしなくていいから。
でも、してみて思ったのは
「人生っておもしろ~い!!」ってことです。
嫌な事も全部、今思えば人生経験!
なんなら、義母さんの認知症介護の出来事も
私は面白いな!!って思っています。
予想外の展開に
様々な人の出会い。
それが面白い所です。
まぁ、大変な事もありますが。
困難や試練に直面したら、乗り越えるまで辛くても
乗り越えた後に感じる感覚も楽しめたりします。
面白い。とか
楽しい。とか
介護に不謹慎っぽいのですが
面白い。って思うと、通じない会話も楽しかったりしますよ。
私の感覚は、そうなんですよね。面白いんです。
ここまで、どうぞ辿り着いてみてくださいね!
沢山、試練乗り越えたら
見えるかもしれない? まだ山は低いか?
はぁ~
長くなったな・・・。
さてと・・・。