今日は、義母さんの施設の日で
朝7時過ぎに送りに行った。
昨日、初めてトイレの場所がわからなくなって
お漏らしをしたまま、部屋にしゃがみこんで動けなかったそうで
義父さんがさみしそうに言った。
ケアマネが来ると
「おむつの補助の申請ができますよ」
と言われるのですが
私は補助を申請した方がいいのはわかっていますが
義父さんや義姉さんは
「まだトイレは自分で行けるので」と
おむつの事を考えていなかった。
『認知症になっても自分の親はちゃんとトイレに行けるから』
と、思っているかもしれないけど
それは早いうちに打ちのめされる。
トイレがうまく行かなくなると
今度は食べることもうまく行かなくなってくる。
食べてはいけない物も口に入れるかもしれない。
先を思って考えていても
なぜか身近にいて思い入れが強い家族ほど
先を見て考えることはしない。
認めたくない。まだ改善するかもしれない。
そう信じたいんだなと思う。
私自身は母の事も
先を考えていたけれど、近くにいた父に反抗的な態度を取られ
どれだけ辛かったか。
『思い入れ』と言うのは、人を刺す。
熱狂的なファンほど、アンチになってしまうように
人も思いが強い人ほど、人への言葉の暴力があるのかもしれない。
義母さんの事は、母の時ほど苦しくなくて
ある程度の無理をしない距離で関わるので
優しく居れることが多い。
それを人に話すと
「他人だからね~。だから優しくなれるんじゃない?」
と言う人もいる。
他人だからどうだっていいと思って優しくできると解釈する人は
自分がそうやって人と関わるんだろうな。
自分の価値観を人と同じと思う。
「介護って大変よね。
気の毒よね。」
その言葉を共感として言う人もいるし
色んな所に、受け止める人の思いが重ならないと
傷つける言葉になるんだなって思う。
自分が思う以上に
人は人を思いやれるわけじゃない。
どうしたらいいかと言えば
自分がそれを咀嚼できるようにするしかない。
朝、義母さんを送っていく時に
上の服が寝巻のままだった。
義母さんは、服と寝巻の区別がつかなくて
朝、服を選ぶときにわからない。
でも、それを無理やり着替えさせる義姉さんには
反抗的になる時が増えた。
「着替えてくれない・・」と嘆くときもあって
でも、私は義母さんが寝巻を着ている時は
「これからお出かけしよう!暑いからこっちの半そでに着替える?」
と聞くようにする。
「そうね、着替えようか」とすごいスムーズに着替えてくれた。
どこにいくの?と尋ねる義母さん。
それに対して、義父さんは
「施設に行くんだぞ!デイサービスだ!」と直球で言うけど
義母さんは意味が分からず、顔が曇り
「なに?どこなの?」と混乱する。
それよりも、
「今日は一緒に買いものに行こう!」と言って
義母さんの気持ちを乗せる。
スムーズに車に乗って施設に向かっても
施設の前で車から降りようとしない場合もあって
そんな時は
「もうみんな集まって、仕事始めてるって~」と
仕事が大好きな義母さんの気持ちを乗せる。
そして、施設の玄関で、内履きに履き替えることが
意味がわからなかったり、
靴を履き替えた後に
「それでは・・」と頭を下げて、帰ろうとしたり
そして、私も一緒に行かない様子に不安になり
後追いがある。
それを「あ!子供迎えに行ってくるね」
とか「トイレに行ってくるね」と言って
その場だけの用事を言って
気がまぎれた好きにサッと帰る・・・。
毎日通っていても
毎日、ここがどこかわからない。
認知症と言う病気になると
毎日が、初めましてだ。
家に帰る時は喜ぶけど
家に帰ってくると、時間がわからないで混乱したり
これから畑に出かけようと外に行こうとする。
いつも自分がどこにいるのかわからないまま
毎日、施設に送って行ってそして、帰ってくる。
混乱する日が増えると
家の認識もあやふやになる中
通いで施設に行くのは
どうなんだろうと思ったりする。
答えがみつからないまま
家族の思いを軸に、認知症の介護は進んでいく。
どうするのが正解などわからないけど
思いをあきらめない家族がいるなら
その家族の思いが介護を決めるんだな。