お母さんの四十九日が終わった。
納骨式もして、ひと段落した。
ちょうど、母の日だった。
カーネーションの花はないけど、
法要のお寺と、お墓に花が供えられた。
お母さんの夢を時々見て、
全然いい夢じゃなくて、
夢から覚めたら嫌な気持ちになって・・・。
お母さんの闘病生活が反映されていて、
結局、お母さんは安らかになれるのだろうか?
と思ったりした。
他人には沢山思いやってもらえたと思う。
家族だって、こうやって集まるんだから
いいお母さんだったんだ。
でも何だろう。
私の中にある『不安定』
どうしようもない自身のなさ。
写真に写ることが嫌いで、
自分を「あなたってこんな人よね」と言われると、
それをぶち壊したくなる。
私はどこまで行っても孤独なんだろうかと思いながら、
家族がいて、犬がいて、
時々集える仲間や連絡を取れる友達がいて。
まぁまぁ幸せってことじゃない?と思ったりもする。
多分、あの人もこの人も、
どんな人も何かしらの自身のなさや、心配などありながらも
毎日を過ごしているんだろうし、
楽しい事や嬉しいことを模索しているんだと思う。
私は、たぶん自分で今の自分を選んでいるから、
もしそれがうまく行ってないと思うのなら、
嫌だったら変えて行こうと努力していってもいいと思う。
ちょっと前まで、良かったと思った事が、
なぜか、何なんだろうと思う事になったり、
うまくいっていても、行かなくなる時もあって、
そして、それでまた努力をすると、
なんだかうまく行くようにもなる。
そうやって、年を取りながらも、ちょっとは成長しているのかな?
お母さんは、一生懸命人に尽くしてきたけど、
最後には本当に辛くかわいそうな状況で、
そして、夜中に一人で亡くなってしまった。
沢山の人に囲まれるのを求めていたのに、
病院でも施設でも、人を信じられなくなり、
食べれなくなり、しゃべれなくなり、
もっと前から動けなくなり。
目を開けることも出来なくなって、
息すらもうまく吸えなくなって、
そして、心臓が止まった。
その瞬間は誰もいないまま。
一生懸命生きてきたのに、
人の最後など、生きてきた道の上にはないのかもしれない。
優しい子が、自らの命を閉じる時もあるし、
意地悪だった人が、家族が集う居間で
孫の傍で亡くなるときもある。
誰がどんな風に生きて、どんな風に死んでいくのかも
関連付けて考えられないのかもしれないから、
今の自分がこんなだったから
将来こんな風になるんだろ、決めることも出来ないのだ。
でも、こんな風に今の思いを文章に残すと、
時がたってから、自分を自分の言葉で救う事も出来るかもしれない。
60分7000円のカウンセリングに行くよりも、
自分を一番知っている自分が
気が付かせてくれるのかもしれないな。
お母さんはもういないけど、
お母さんの生きてきた道はどこにつながっているのかな。
お父さんはいつまでも後悔ばかりを口にして、
いつまでも過去を引きづって行く。
その言葉を誰もが真剣には聞いてくれないけど、
口に出した自分がそれを咀嚼していくのだろうな。
親という存在は、
子供にとっては絶対に必要と思っていたけど、
子供はいつしか自立した考えを持つから、
私がお母さんとして固執していても、
子供たちはそれを振り払って生きていくのだと思う。
時々、たびたび長男とバトルけど・・・。
あの子の不安定が、本当に私の気持ちを強くしていく。
次男の気づかいの心が、私を心配させる。
この子の優しさに甘えちゃいけない。
この子には優しくいてあげないとと思う。
長男も次男もとても可愛くて、
絶対に譲れないけど。
私もいつかお母さんのように
いなくなるのだよな。
その時、私はどんな母親でいるのだろう。
不思議な感じだな。