前々回、「認知バイアス」に関する本の紹介をしました。

 

 

 

 

これを読んでいる時、「偏りのない視点」で自分や周囲の事象を捉えることの難しさを実感し、生きていく上でこういう「偏り」を意識することは、生き方にも大きく影響してくるだろうな・・・と思いました。

 

生き方に影響するということは、先日まで青龍塾の講義で取り上げられていた、星の次元についても関わってくるんじゃないかな、と思い、先日書いたこの記事の最後にもそう書きました。

 

 

 

 

しかし!これを書いた4日後の「算命学研究室 算命日記 靑流次元講座〜仙人への道〜」に、こうありました。

 

 

 

『人間が自己の欲を発揮もせずに切りすてようとすれば、それは切りすてたいという欲望に他ならないのであります』

 

人間として一生懸命生きて(欲を発揮し続けて)、あとは、自然に身をゆだねる。

親鸞聖人の「他力本願」ととてもよく似ているように思うのです。

 

『次元が高まると欲を発揮する必要がなくなり自然に過ごせるものであります』

 

弥陀の光に包まれるように、次元が高まると「欲を出す必要がなくなる」のです。

それはストイックに研ぎ澄まされた人間ではなく、野に花が咲くがごとしです。

 

 

「偏る心」を偏らないようにしたいというのも「欲」。

 

自分をストイックに研ぎ澄ます考えや行為など、なんら必要がないということです。

 

 

でも、それはあくまでも最終段階。

 

私のごとく、欲にまみれた段階にいる人間は、その欲をまずは燃焼してしまわないと先に進めないということなのね・・・と、算命日記を読んだあとに考えていました。

 

 

 

 

で、ここからが認知バイアスシリーズその②なのですが笑

 

この本の中ですごくおもしろかったのが、

 

私たちが自由に意図をもつことができる(選択の自由がある)というのは間違いなのではないか?

 

ということでした。

 

 

私たちが現実を「自分の意思で選び取っている」と思っているのは、ほんとうにそうなのか?

 

 
その検証として、脳の活動・意図・運動の順序関係の実験について書いてありました。
 
たとえば例として、私たちが目の前にあるりんごを手に取ろうとします。
 
その時、
 
①りんごを取りたいと思う(意図)
②脳がその意図を受け取って体を動かす(脳活動)
③手が動いてりんごを取る(運動)
 
ではないのだそうです。
 
 
実際は
 
①脳がりんごを取れと指示する(脳活動)
②りんごを取りたいと思う(意図)
③手が動いてりんごを取る(運動)
 
の順なのだそう。
 
 
以前他の記事でご紹介したルパート・シェルドレイク博士は、私たちの脳は「受信機である」と言っています。
 
 
青龍先生が書かれている「心」を私たちの意図、「気」=「霊魂」を脳の(受信)活動、「体」を運動と考えて当てはめてみると、
 
☓意図(心)→脳活動(気)→運動(体)
 
ではなく
 
◯脳活動(気)→意図(心)→運動(体)

 

※画像は算命日記よりお借りしました

 

 

 
つまり、人間は生まれながらにしてこの下の部分に書いてある自然な流れを持っている、ということなんじゃないかと。
 
 
 
社会心理学者ダニエル・ウェクナーは

人は「意図」を「運動の原因」と錯覚する
 
と言っています。(見かけの因果)
 
 
人間は自分の意志が行動の原因だと錯覚している。
 
人の行動は意図的因果、つまりそうやろうと思ったからそう行動した、という説明がなされる。

しかし、人の行動は自由意志によって、その人が自覚できる意図に基づいて行われるわけではなく、意識できない情報、無意識の働きによって引き起こされる。

これは大きな問題。なぜなら原因が意識できないから。

人は、「意図」を使ったでっちあげをする。

そのでっちあげた理由に基づいて、協力あるいは裏切りを選ぶ意図を持つ。
 
 
これを知っただけでも、この本を読んだ価値があったなと感じました。