思いを受け止める器について
夕方、駅からスーパーまでの途中にある、ドーナツ屋さんが入ってる建物の入り口前。
何故かごろんと寝転がっている、小学校高学年くらいの少年がいた。
遠目に見てもヤンキー少年にしては小奇麗だし、何よりも風が冷たくて寒いし…
コンクリートの上じゃ風邪ひくよと思って彼を起こそうと、急ぎ足で向かおうとした時だった。
「なに寝てンの」「きったないわねー」という声が、少年のすぐそばで同じく座り込んでいた女性二人連れからあがる。
彼女たちは乳母車に赤ん坊を乗せていて、何かを探しているのでしょう、大きなバッグの中を盛んにかき回している。
少し離れた場所に横たわる少年の連れなのだと思った瞬間、信じられないものが目に飛び込んで来た。
少年の口から、白い液体がどろどろと流れ出しているのだ。
まさか、何かの病気か?!とビックリして、少年に駆け寄ろうとしたが、側に連れがいるんだし…と躊躇してしまう。
横たわる少年は、何故か微笑んでいるように見えた。
その口元からは、止め処なく液体が溢れている。
女性達はバッグを次々開けて、少年に何かを言っている。
もしかしたら、タオルか何かを探しているのかもしれない。
彼等がいるなら大丈夫(?)だろうと思い直し、その場を離れることにした。
晩ご飯の買出しの為、スーパーできょうだいのひとAと待ち合わせていたのだが、どうしても気になるので理由をAに説明し、二人で現場に引き返した。
既に彼等は立ち去ったようだった。
液体がこぼれていた床面には水で洗い流した跡があり、救急車のサイレン音もしていないので、多分大事に至らなかったんだろうと安心した。
すぐ介助行動に移れなかった自分の態度が、少し恥ずかしい。
スーパーマンになりたくてもなれない現実が、改めて身にしみる。
正義感だけきれい事だけで、全然ダメじゃないか。
いつか、ちゃんと行動できるならそれで良いと思うけど。
いつかじゃなくて、今がいいんだと思ってしまう。
好きになる、愛するという感情は、本当にひとそれぞれだ。
対象が無機質であっても、有機物であっても、思いを寄せていることに変わりはない。
注がれる思いが大きい小さいなんて、本人にしかわからない。
今日、改めて考えさせられた事がある。
財布の中を整理していて、出てきた一枚の黄色いカード。
臓器提供意思表示の、ドナーカードだ。
以前、唯一の近親者であるAと、これについて確認しあったことがある。
ふたりとも、臓器提供に前向きな意思を持っていた。
感情、倫理等の様様な理由から、臓器移植に反対するひとは多いと思う。
強く勧めるつもりは毛頭ないので、一意見としてとらえて欲しい。
ネットで検索したら、脳死はヒトの死ではないという考えからの、ノードナーカードを掲げる宗教のサイトに当たったり。
また、『持ってはいけないドナーカード』という本の読者レビューのみではあるが、初めて知ったこともある。
残された家族の心情や、摘出する医師側を守ることが定まっていない上にいつ変わるか分からない法基準、提供された側が負うことになる生涯免疫抑制剤の使用、そして死に対する思想…
色々なリスクがあることは、充分承知している。
その上で、もし、わたしの肝臓や心臓を使う事で生き延びる事が出来るひとがいるならば、是非使って欲しい。
考えて考えて、改めてそう思った。
だから、これからもドナーカードを持ち続けようと思う。
その日が来て、わたしを思って悲しむ人がいたとしても、それがわたしの選んだことだから分かって欲しい。
臓器は部品じゃないけれど、対象者の臓器と交換することで、またわたしは生きていける。
問題ある考え方だけど、正直そう思うんだ。
不快に思われる方がいましたら、すみません。