忘れない
あの日から12年。
阪神・淡路大震災が起きてから、干支が一廻りするほどの月日が経った。
わたしは芦屋に住む相方Eの家に泊まっていた為、Eと共に被災した。
はじめは何が起きたのかわからなかった。
無意識に布団を頭から被りなおして、揺れが収まるのを待った。
本棚から本が、飾り棚から人形や陶器の置物が降り注ぐのを、布団越しに感じた。
うつ伏せた体の下にあるのは敷布団ではなく、まるで硬い海水が激しく波打っている、そんな風に感じた。
E家の電話が不通になってしまったので、わたしの自宅に安否確認の電話をかける為に、近くの公衆電話まで歩く途中に見た光景が忘れられない。
山の中腹にあるEの家から見下ろす形で見た。
海方面の住宅街のあちこちから、明けきらない空の暗さに負けないどす黒い煙があちこちから昇り、火の手がコウゴウといくつかのマンションを覆っていた。炎が雲に反射したのか、地面が一瞬光っていた。稲光のように空も光った。
関東育ちのEにしてみれば、地震はそうめずらしいものではなく、今回はちょっと激しかったなという程度だと思っていたらしい。それよりも、年末大掃除を一人でやっつけたのが無駄になったことが腹立たしいようだった。
…夜が明けるまでは。
日が昇り、朝になって、改めて部屋の中の惨状と、辛うじてついたテレビで見た震災の状況に、わたしたちは呆然とした。
だが、まだ実感が湧かない。とりあえず片付けられるだけやってしまおうと、倒れた大きな家具をえっちらおっちら持ち上げたり、掃除機をあてたり、こぼれた水を拭き取ったりした。
ガスが止まってしまったので、カセットコンロで薬缶に湯を沸かし、カップラーメンを作って食べた。テレビが映らなくなった。
その頃になってやっと、とんでもない状況にいるんだという気がして来た。
水と電気はいつ止まるのか不安になりながら、床を拭いたり、窓の歪んだ桟に悪態をついたりしながら午後を過ごしている間も、大きな余震があった。もうこれ以上片付けられないと思いながらも、手を動かしていた。
夕方近くに、当時仕事の都合で別に暮らしていたEのお父さんが、Eとわたしを車で迎えに来てくれた。
助かった…と思ったが、Eやわたしの体から恐怖が完全に消えたわけではなかった。
こんな地獄のような光景に身を置く事など、誰が想像しただろう。
大渋滞の大阪方面のへ道路を行く間、呆然となりながら瓦礫の山に映る夕焼けを見つめていた。
淀川を越え、大阪市内に入るにつれて増える電飾、普通に行き交う人々や車が目に入る。
すでに真夜中だったが、お父さんの好意で自宅まで送ってもらい、きょうだいのひとAと無事を喜び合ったが、お風呂の支度が出来てるよと言われて、急に体が硬く冷たくなってしまった。嬉しいはずなのに、とても喜べない。
Eのお父さんのおかげで脱出出来たけど、まだあそこには…
そう思いながら、今どうすることも出来ない自分が腹立たしかった。いや、腹が立ったのはそれだけではない。地震の恐怖がまだ体に残っていた。お風呂に入るという日常からまだ遠いところにいるような気がして、思うように体が動かなかったのだ。そんな自分自身に物凄く腹が立った。
結局軽くお湯を浴びる程度の入浴で、自分のベッドに潜り込んだ。しばらく眠れないと思ったけれど、人間はどこか図太い。昼間の作業が堪えていたらしく、夢も見ないで眠った。
あの日以来、地震が起きる度に、体のどこかが恐怖で冷えてしまう。
もっと酷い目にあった被災者の比ではないと思う。けれど、わたしが体験した恐怖も間違いなく同じもの。
犠牲になった方々の鎮魂を心から祈る朝がまたやって来た。
あの地震を体験した人達の中に、忘れたいと思う方もたくさんいる。ニュース番組など見たくない、思い出したくないと。
それだけ辛い思いなら、忘れてしまってもいいと思う。それはわたしが助かったから言える事だということも充分解かっている。
だから、代わりにわたしが忘れない。
物見遊山で被災地に来て、現実の恐ろしさにボランティア精神に目覚めた青年、
2階が崩れ落ちた家をコッソリ撮影しているのをわたしに見られて恥ずかしそうに顔を歪めて素早くカメラをポケットに仕舞った中年男性、
小学校で避難生活をする友人を訪ねて行ったら、逆に支援物資のお菓子や炊き出しのカレーを食べさせてもらったわたしたち、
そして、知らない者同士が声を掛け合い、励まし、助け合ったこと。
忘れない。助けてもらって生きていることを。感謝することを忘れない。命の重さを忘れない。
部屋の中から神戸方面に向かって祈りながら、今朝も誓った。
地震が起きないことが望ましいけど、もし余所で地震があったら、必ず、小さなことでもいいからとにかく助けに行くと。
たかが自分に出来ることは限られている。だから出来る範囲で。
大げさかもしれないけど、毎年、生き残った者として誓う朝だった。