吾輩は猫である。

名前は・・・少々待たれよ。


玄関ドアの向こう、コンクリートの通路を歩く音がする。

まだ遠いその音を吾輩は注意深く聞き、そしてベッドから飛び下りる。

ご主人だ。やっと帰って来た。

吾輩のご主人は若輩の教師だ。

格別の志があるわけではないが、彼なりに思うことはあるようだ。そしてそれがままならないこともあるのだろう。時々しおれた足音で帰って来る。

吾輩はドアの前に座って待つ。

チャリチャリとポケットを探る音、ガチャリと鍵が差し込まれる音、カチッと錠が外れる音。

それからゆっくりと開くドア。

彼は吾輩がここで待っていると知っている。 疲れた顔色をしていたが、眼差しは優しいご主人だった。

「ただいま」

にゃあ、と鳴いて返事をする。

彼は鞄を置いて吾輩に手を伸ばす。

「おいで、モフ」


吾輩はモフモフした猫である。

ゆえに名前はモフだ。

学生だったご主人に拾われ5年ほどが経ったのだろうか。今は教師になって実家を出た彼と二人、狭いアパートで仲睦まじく暮らしている。

彼と二人、仲睦まじく。

吾輩はピクリと耳をそばだてる。

通路を歩く音がした。

もはや聞き慣れたトボトボ心許ない足音と、ゴロゴロ禍々しい荷物を引く音。

あいつが来た。

ご主人と吾輩水入らずのほんわか睦まじ生活に土足で踏み込む天敵だが、しかし悲しいことにご主人にとっては長い付き合いの気楽な友達なのだ。

それでも吾輩は臨戦態勢をとるためにご主人の腕から飛び下りて、再び玄関ドアの前に行く。

念の為に言っておくが、あいつは客だ。ピンポンを鳴らすべき人間だ。

ガチャ。

「ただいまー」

「あー、おかえり」

おいお前!でもあるが、おいご主人!でもある。

だがもちろん、吾輩がシャー!をするのはこのワカメにだけだ。

吾輩はこの男の名前を知ってはいるが、あえて呼ばない。髪型がワカメのようだからこいつの呼び名は「ワカメ」と決めている。

しかしどうしたことか。

顎あたりまで伸ばしてパーマをかけていたそのワカメのような髪の毛が、なんと綺麗さっぱりなくなっているではないか。(生えてはいるが)

服装もまるで違う。いつも着ているカジュアルだけど恐るべきロゴが入ってるような服ではない。

この感じに何やら既視感を覚えたが、そうだ思い出した。

髪型も服装も、なかなか教師を目指す決心がつかずにいたご主人が、就職活動なるものをしていた時の出で立ちだ。

ワカメが最後に我が家に来たのは確か1ヶ月ほど前だったような記憶だが、その1ヶ月でワカメにいったい何が起こったか。

おそらく反射でいつも通りのおかえりを言っただろうご主人も、さすがにこの豹変ぶりには驚いたようだ。

「面接でも受けて来た?」

それでも軽く尋ねたご主人に、ワカメも至って軽い口調で返した。

「んー、行かなかった」

それはそういう予定があったにも関わらず、敢えて行かなかったという意味に違いない。

普通ならそこで仔細を問うのだろうが、ご主人はそうしない。

「そう」

行かなかった理由はなんとなく察しがつく。

だがワカメが急に就職活動を始めた理由はご主人も分かってはいないだろう。

そうだ会社員になろう、とワカメが自発的に思いついたわけではあるまい。

ワカメにそうさせた何かがあったはずだ。

けれどご主人はそれを聞かない。

吾輩はその足元に身を寄せて、にゃあと鳴いた。


ワカメは持って来たキャリーケースを開けて着替えを取り出す。

「シャワーしてくる」

そして勝手に給湯をつけ、スーツを脱いでご主人に渡した。

「一応ハンガーに掛けといて」

「んー」

そう返事をしながら受け取って、だがご主人は迷うことなくキャリーの上にそれを放り投げる。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

無言の八の字眉と、無言で上がる口角。

気遣いはするが気は遣わない、そんな言葉のあやのような二人だけの空気が、時々吾輩を寂しくさせる。

だが仕方あるまい。

何しろ吾輩は、猫であるのだからして。

ワカメが風呂場に消えた後、ご主人は吾輩を抱き上げた。

「モフはモフモフしているね」

当たり前だろうと吾輩はピンと髭を張る。

吾輩は他の猫ではない。モフなのだから。


さてワカメがいなくなったところで吾輩には一つ楽しみがある。

それは開きっ放しのワカメのキャリーの中身を検分することだ。

恐るべきロゴがついた服やアクセサリー、化粧品にサプリメント、いろんな物がぐちゃぐちゃに詰まった大きなキャリーは吾輩にとって最高のおもちゃ箱だ。

引っ掻き回して引きずり出し、目を引く物は咥えてご主人に見せに行く。

ああこれは香水だよ、それはネイルカラーだね、とご主人は吾輩の頭を撫でながら説明し、そして返しておいでと優しく諭す。

キラキラした色や飾りに未練はあるが、言いつけ通りキャリーに戻す吾輩は偉い。

そして吾輩は優秀な猫である。ゆえにファスナーを開けるのもお手の物だ。

実を言えば、ワカメの持ち物で吾輩がなぜかすこぶる気に入っている物がある。

それはいつもファスナー付きのメッシュポケットに入っている。

一通り検分し終えた吾輩は、いつも通りお気に入りのおもちゃで遊ぼうとメッシュポケットのファスナーを器用に開けた。

それはツルツルとした素材の細いリボンだ。

ご主人が言うには、これは有名菓子店のラッピング用リボンだそうだ。

だが吾輩はリボン自体に興味があるわけではなかった。

このリボンには、何かの鍵が通してある。

ご主人が持っているこの部屋の鍵と大して変わらぬごく普通の鍵ではある。

普通と違うのは、持ち手の部分に絵が描いてあることだ。

絵と言ってもただの黒いマジックで描いたハートマークだ。記号や番号のような刻印でデコボコした形状など意に介さず、目一杯に大きなハートマークが描いてある。

吾輩はなぜかとんと分からぬが、そのハートマークに妙に心惹かれてしまうのだ。

今日もご主人にリボンを持たせて、ゆらゆら揺れるハートマークを両手でタシタシしようかなどと、うっとり想像しながらメッシュポケットに頭を入れる。

リボンを咥えて引っ張り出して、まずは1ヶ月ぶりのハートマークが消えていないか確認を。

確認を、しようとして。

・・・無いではないか。

ハートマークが消えて無くなったというのではない。

鍵そのものが付いていない。

これはいったいどうしたことか。

一大事である。

吾輩はただのリボンとなったそのリボンを咥えて、ベッドに寝転んだご主人の背中に飛び乗った。

ぐえ、と大袈裟な声を上げたご主人は、背中から下ろした吾輩の口からリボンを取って、モフ遊びたいの?といつも通りの呑気な調子だ。

いやご主人。よく見てくれたまえ。そこに何かが足りないだろう。

「・・・・・・え?」

起き上がって絡まったリボンを解こうと両手で広げ、ご主人もようやくそれに気づいたようだ。

「ああ・・・そう、か・・・」

混乱と落胆、あるいはそれに近い感情だろうか。

鍵のないリボンを両手に広げたまま沈黙しているご主人が、何を思うのか、何が彼にそれを思わせているのか、吾輩には見当がつかぬ。

だがそれは、好きなおもちゃが壊れた吾輩の混乱と落胆とは違うのだ。

ご主人はリボンを丁寧に畳んで吾輩に差し出した。

「モフ、返しておいで」

吾輩も丁寧にそれを咥えて、キャリーのメッシュポケットに慎重に戻した。

ワカメの持ち物をこんなに注意深く扱ったのは初めてだ。

それはご主人の丁寧な畳み方に倣ったわけでもあるが、吾輩も見当がつかないなりに察していたからだ。

人の思い出を踏みにじってはならぬ。

膝に戻った吾輩を、ご主人は褒めるように何度も撫でた。


湯上りワカメは己の荷物の惨状を、こうなると知っているくせに毎度ひとしきり嘆いてみせる。

今日も吾輩の背中に向かってモフちゃんひどいよと苦情を垂れる。

ただ今日は、普段ワカメは吾輩を撫でたりしないが、苦情の終わりに吾輩の背中にポンと手を置いた。

そして濡れた頭にタオルを被ったまま、ベッドの上のご主人の隣に寝転んだ。

クッションに凭れて座るご主人の手が、タオルを手繰って髪を拭く。

「なに今日。優しい」

「俺はいつも優しいけど」

「いつもはあれじゃん、乾かさないなら剃るぞって言うじゃん」

「じゃあ剃るか?」

「俺、家出は得意だけど出家はできない」

ワカメの毛繕いをするご主人を見て吾輩は胸中穏やかではなかったが。

ワカメがご主人の手からタオルを取り戻して、目元を覆うように自分の顔の上に掛けた。

「あのさ」

「うん」

「別れた」

「そう」

「でもさ」

「うん」

「・・・・・・寝るね」

ワカメはもぞもぞと布団の中に潜り込んだ。

言いかけてやめた言葉は誰にも分かる。

よく寝な、とワカメの形に盛り上がった布団にご主人は声をかけた。

そしてベッドから下りて吾輩を抱き上げる。

ナデナデを期待して目を閉じた吾輩だが、そうではなかった。

そうではなかったどころか、事もあろうにワカメの上に下ろされた。

「俺シャワーしてくるからね」

その間ワカメを宜しく頼むということか。いや待たれよご主人、・・・いや。あの。

・・・・・・いいだろう。

着替えを持って部屋から出て行くご主人を、早くと急かしたことなど今までない。けれど今日は風呂場の戸が開く音にほっとした。

さっきからずっとワカメが、吾輩の尻の下でワカメの塊が、実はなんと泣いている。

胎児のように体を丸めて、声を殺して泣いている。

吾輩はワカメの上から下りて布団の中に潜り込む。

ワカメの顔を探し当てると不本意ながらもほっぺたをペロペロと舐めてやった。だいぶ塩辛い。

「モフちゃん」

「にゃあ」

「俺さ」

「にゃあ」

「まだ好き」

てしっ。

「痛て!」

吾輩にそれを言ってどうするのだ。

だが吾輩は優しい猫である。

もう一度頬を舐め、そして布団から出て再びワカメの上に乗って丸くなる。

ワカメは何度ももぞもぞ寝返りを打つ。その度に忌々しいやつめと思いながら、吾輩も体勢を整える。

やがてしばらくしてワカメの呼吸が寝息に変わり、心地よいそのリズムと体温に吾輩もウトウトと微睡みの中に引き込まれそうになる。

ご主人。

もしかしたら知っているのかもしれないが。

吾輩は、そんなにワカメのことが嫌いではない。




吾輩とワカメ