私の爪はいつもベージュ、たまにブラウン、必要に応じてパールホワイト。

何も付けないワンカラーの、煩悩のないラウンドネイル。

日々に期待はしていない。

そんな甘い色を塗らない。

ネットで買い間違えたベビーピンク。

返品するのも面倒で、でもやり場がなくて、中途半端なインテリアみたいに鏡の前に置いていた。


「可愛い色だね」

久しぶりに部屋に来た彼は、華奢で可愛らしいそのネイルカラーの瓶をすぐに見つけた。

最近はそういう感じが好きなんだもんね、とは思っても言わない。

この間連れてた白いコートの清楚な女も、その前のふんわりニットのピンクの女も、彼にとってはどうせただの流行で、特別じゃないからどうでもいい。

私はある意味特別だ。

いつでも利用可能な待機室。給油はできないけどヒマは潰せる。馬鹿みたいに特別だ。

だけどこの3年間、彼が私の誕生日を忘れたことは一度もない。言っても誕生日なんて3回しかないわけだけど。

それでも私はこの馬鹿みたいな特別感にしがみついて生きている。


「塗ってあげる」

気がつけば彼はネイルカラーの瓶を開け、刷毛のついた蓋を片手にもう片手で私の手を取った。

ちょうどいいことに私の爪には今何も塗られていない。

「これってライトいらないやつだよね」

自分でもネイルをする彼は、ジェルとポリッシュの違いが分かる。

彼も私も普段はジェルネイルをする。

私がこのポリッシュを買ったのは、ただ瓶が綺麗だったから。

こんなふざけた色は塗れないと思って同じ種類のベージュを買ったつもりでいたけど、届いたのはなぜかそのふざけたベビーピンクで、この世のすべてのものに負けた気がした。


慣れた手つきで私の爪にネイルカラーを乗せる彼のその爪は、今日も綺麗にマットなブラックが塗ってある。

セルフネイル。彼は器用だ。

ネイリストになったら?と言ったら、人の爪には興味ないとあっさり却下されたのを思い出す。

私は人じゃないのか。

じゃないよね。

じゃなくて、特別な人なんでしょ。

そんな自分の思考回路を笑う。

改めて自分に言う。

日々に期待はしていない。

テーブルに置いた私の指に顔を近づけ真剣な彼の、前髪の香り。私が知らない匂いだった。

「トップコートある?」

カラーを塗り終えた彼はそう聞いたけど、ないよと私は答えた。

本当は持ってるけど。

ネイルポリッシュはすぐに剥がれる。

彼は明日にはきっといない。

私が何を思っているか彼は知るはずもないだろうけど、少し困ったように笑って、今度買ってくるねと言った。

爪が乾くのを待つ間キスをした。

私はベビーピンクが似合う女の子のように応えられただろうか。

ポリッシュが乾いた指先を手に取って、可愛い、と彼は言った。


それから3週間ほどして彼はまたふらりと現れた。キャリーケースを押して、トップコートを持って。

今そこのコンビニで買ってきただろうトップコートの小瓶に、約束したでしょ?と甘い言葉をコーティングして私の手に載せて。

「・・・落としちゃったの?」

3日でボロボロになったベビーピンクの魔法を除光液で落とした肌色の爪を見て、残念そうに彼は言うけど。

私の気持ちも3日でボロボロになったことには永遠に気づかない。

でももう慣れたことだ。

慣れればボロボロになんてならないっていうのは嘘だと理解するくらいに、慣れたことだった。

けれど私の諦めを彼はふやかす。

爪の付け根の皮膚を吸う。

やわらかく温かい。

玄関ドアとキャリーケース、無精髭。

靴も脱がずに女の機嫌を取る惨めな男。

でもいい。

「また塗って」

「うん」

「上がりなよ」

「ただいま」


ベッドサイドの照明に翳して見る、またベビーピンクに塗られた爪。

今度はトップコートも塗ってくれたから、もう一日くらいは長持ちするかな。

日々に期待はしていない。

だけど時々は夢を見る。

この爪が剥げるまではここにいて。

眠ってる時にしかしないけど、布団の中で彼の手を繋いだ。



ベビーピンクの魔法