謝霊運についての人物像は、後世に編纂された「宋書」によっています。
「宋書」は、中国、南朝宋一代の紀伝体の歴史書で、正史の一つとされていて、帝紀10巻・志30巻・列伝60巻の全100巻からなっています。当時著名な文人であった沈約(しんやく)(441―513)が、487年南斉(なんせい)武帝の勅命を奉じて編纂されました。
本紀10巻と列伝60巻は先行の稿本を基にわずか1年で完成しましたが、志30巻の稿了には十数年を費やされたと解説されています。
何承天・山謙之・蘇宝生・徐爰らが相ついで撰述したものに沈約が若干の改訂を加えて編纂されたようです。
編纂される中で、父の沈璞(しんはく)を殺した孝武帝とその功臣に悪口を書き連ねるなど、古来、曲筆が批判されていルトいいます。
人物、事柄の個別性、ものごとの豊饒(ほうじょう)さを重んじた南朝貴族の精神を反映して叙述は詳細で、詔勅、上奏文、私信、文学作品を数多く採録されており、また志は、諸制度の変遷を漢や三国時代にさかのぼって跡づけていて、大変に貴重ということです。
ただ唐以降になると、簡潔な歴史叙述が尊ばれるようになり、李延寿(りえんじゅ)『南史』、司馬光『資治通鑑(しじつがん)』の出現もあってあまり読まれなくなり、一部が散逸してしまいました。夷蛮(いばん)伝の中に倭国(わこく)の条として倭五王の記事があります。
このように、「宋書」の成り立ちを見てみると、列伝の60巻については、わずかに1年という短期間で仕上げられたとなっています。いくら有能な編纂者がいたとしても、下地になった何らかの資料がなくてならないように思えます。
実物を見ていないものにとっては、研究者の言を待つより他ありませんが、先行の稿本なによる編纂という説明がありますが、どんな資料だったのでしょうか?
特に列伝については、先行資料として採用されたものは何だったのでしょうか?
正史という性格からすると、謝霊運は反逆者だったわけなので、恐らくそれを裏付けるための行為やそ言説が拾われることになるのは当然なのかもしれませんが、なんとなくしっくりこないのは、私だけでしょうか。
こう言ってはなんですが、沈約(しんやく)も人の子であり、その編纂内容については、父の汚名を注ぎたい一心からか、記述に疑義をはさまれるような編纂がされている、との批判もあるようです。
列伝の二十七の記述の一部しか見ていないため、よくわかりません。ただ彼の性格や儀礼がなっていなくても、詩の才能は疑いようもなく、山水詩を確立した詩人として評価は揺らいではいないようです。
また、政治的立場から見ると、彼は名門の門閥であり、実力も相応にある人物として、若い時から良くも悪くも恐れられる存在であったと考えられていたではないのかという気がします。
宋書の列伝の謝霊運の記述について、どうもよくない印象、記述が露骨に悪口すぎるように思えて、違和感を勝手に持ってしまいました。
宋書全体の記述については、全く目にしていないので、単なる感傷的なものでしかないかもしれません。