はじめに

 

新型コロナウイルス感染症(以下コロナ)は、解熱後、PCR検査陰性確認後も、様々な症状が残存するケースが多く報告されています。

ある研究によれば、一般的な症状は、倦怠感(58%)、頭痛(44%)、注意欠陥(27%)、脱毛(25%)、呼吸困難(24%)で、コロナから回復した人の50%以上が、3か月後も何らかの症状に悩まされ続けていることがあきらかになりました。

コロナのウイルスは、時間とともに変異してオミクロン株となり、2022年7月に第7波に入ってからは、その派生型のBA.5に置き換わりつつあります。

BA.5は感染力が強く、広く伝播しますが、軽症であることが知られています。

しかし、ハーバード大学医学部と米国疾病予防管理センターは、COVID-19の生存者は軽症であっても、思考力や集中力を含む長期的な神経学的影響を受ける可能性があると指摘しています。

このような後遺症は「Long COVID」とも呼ばれ、治療法が確立していないのです。

では、漢方医学ではこのような状態をどのように見ていたのでしょうか。

 

 

江戸時代に、急性熱病の後に出現した重篤な症状に漢方薬を用いて軽快させた例

 

第1部で、宋代に新しい感染症が流行し、そのために新しい処方が多く開発されたことを書きました。この頃の書物をよく見ると、疫病の後遺症のために開発されたと思われる処方もちらほら見られます。

それらの処方の応用が、江戸時代の漢方医学の書物に見られます。その一つをご紹介しましょう。

 

この画像は、江戸時代の初期に書かれた『衆方規矩』という医学書の中にあるものです。意釈してみます。

 

 

 

『衆方規矩』より人参養栄湯の症例

 

ある患者が急性の熱病を患い、治った後、眉毛と頭髪が抜け落ちてしまった。顔色も優れず、杖の助けがなければ歩くことも出来ないという状態が一年余りも続いた。

私はこの処方(人参養栄湯)を与えたところ三十回分余りで毛髪が生えてきてよく歩くことが出来るようになった。五十回分を服用して元に戻った。

 

ここには、急性の熱病に罹患し、治癒したにもかかわらず、その後、眉毛と頭髪が脱落し、歩くことも出来ないぐらいに衰弱してしまったということが書かれており、

これはコロナ後遺症の特徴によく似ています。原因となった感染症がコロナであったかどうかは別にしても、重症の急性発熱性疾患の後遺症を治療したものとして貴重なものです。

しかし、江戸時代の、このお医者さんは、単なる思い付きで人参養栄湯を使用したのではありません。宋代や明代に書かれた医学書を参考にし、自らの経験を踏まえて患者さんに使っていたのです。

江戸時代の中期に活躍した津田玄仙は、その著書に「人参養栄湯を諸病に用ゆる目的は、第一毛髪脱落、第二顔色無沢、第三忽々健忘、第四只淡不食、第五心悸不眠、第六周身枯渋、第七爪枯筋涸、以上を人参養栄湯目的の七症と云うなり。」と書き記しています。つまり、「物忘れ」「脱毛」「食欲不振」「不眠」や全体として栄養不良に陥っている人に人参養栄湯を使用するのが良いと指示しているのです。

 

 

実際に報告された現代の症例

 

ここまでは、江戸時代の書物を中心に述べてきました。現代でも、これらの記述をもとに人参養栄湯を使用し、著明に軽快した症例を矢数芳英先生らが発表しておられます1)

概要を紹介しておきましょう。

 

患者さんは40歳代前半の女性。

1か月前に、発熱にてPCR検査施行、新型コロナウイルス陽性と診断され、ホテル療養となった。しかし、ホテル療養終了後に強い全身倦怠感や嗅覚障害、微熱感、思考力の低下(頭がモヤモヤする)などの症状が残り、漢方治療を希望された。

この方に対し、人参養栄湯エキスを投与したところ、翌日に倦怠感の改善を覚え、2週間後には半減し、頭のモヤモヤも取れてきた。途中で水様の後鼻漏が出現したが、

これは苓甘姜味辛夏仁湯でしのぎ、5週後には仕事に復帰、7週目には以前のように「頭が回っていない」ということもなくなった。

 

ということで、この患者さんは、社会復帰されたのですが、このような患者さんは意外にたくさんおられるようで、他にも報告があります2)

 

 

 

コロナ後遺症に対して人参養栄湯の症例が掲載された雑誌

 

 

ブレインフォグと思われる患者さんを原南陽が治した話

 

コロナ後遺症にはブレインフォグ(脳の霧)と呼ばれるものがあります。

脳に霧がかかったようにモヤモヤとして、日常的な物事をしばらく思い出せなかったり、普段から行っていることが混乱してできないなどの症状を言います(正式の病名ではありません)。

頭がボーッとしたり、物事に集中できなかったり、とりとめもなくいろいろなことを考えてしまったり、物忘れをするようになってしまったりするものです。

 

原南陽(1752—1820)という江戸時代のお医者さんが次のような患者さん(子供)を治した経緯が『叢桂亭医事小言』という本に書かれています。

 

ある医師の外孫が疫病に罹患した。葛根湯を与えたところ、数日でうわごとを言うようになり、午後になると熱が出るようになったため、大承気湯を投与した。それで熱は退き、食もほぼ良くなってきたが、精神は痴呆のようになってしまい、また狂ってようにもなり、狐つきのようにも見えた。その医師は三黄瀉心湯や黄連解毒湯を与えたが、昼も夜も眠らずじっとしていられない様子である。私、(原南陽)に治療が求められたので、帰脾湯を2回分投与した。しかし、その医師は納得しないので、分からなくてもとにかく飲ませなさい、と言って帰った。翌日往診してみると、精神症状も体もすっかり良くなって元通りになった。

 

これは、急性熱病後に精神状態が異常を来たしたもので、ウイルス性の熱性疾患に時々見られる症状で、この記載だけでは脳炎か、ブレインフォグなどの脳症かはっきりしませんが、帰脾湯にはこのような作用があるということが分かります。

江戸時代のブレインフォグの症例はまだまだたくさんあるのですが、ここではこの1例を紹介するにとどめておきます。

 

帰脾湯に柴胡と山梔子を加えた加味帰脾湯による報告もいくつかあります。

吉永亮先生らは、新型コロナウイルス感染症罹患後の著明な全身倦怠感やブレインフォグなどの諸症状に対して漢方治療を行って職場復帰された患者さんについて詳細に観察しておられますが、一連の処方の中で、加味帰脾湯(合半夏厚朴湯)を用いたことが症状の改善につながっていると思われます3)

 

 

おわりに

 

コロナ後遺症には決定的な治療法がまだ確定していません。症状も多岐に及び、一律にこの治療で治る、というものではないように見えます。このような状況下で漢方薬の果たす役割は大きいと言えます。

これまでに、いくつかの漢方の専門誌に、人参養栄湯や帰脾湯などの漢方薬を用いてコロナ後遺症を治した症例や集積研究が発表されています。

それらがもっと大きな数になった時、コロナ後遺症の人たちに安心して漢方治療を受けてもらえる時が来るでしょう。

 

 

注)12~16世紀に書かれた医学書における「人参養栄湯」

 

人参養栄湯は、宋代に流行した急性熱病の処方がたくさん載っている『和剤局方』に次のように記載されているのです。意釈します。

 

 

 

『和剤局方』より「人参養栄湯」

 

 

疲労が積み重なり、臓腑・陰陽・気血が損傷し、四肢は(気血が)滞り、関節や筋肉がだるく痛み、息を吸おうとしても十分吸い込めず、動けばゼイゼイと喘ぎ、小腹は拘急し、腰や背中は強ばり痛み、心は虚して不安を生じ動悸する咽と唇が乾燥し、飲食に味がなく、陰陽は衰弱し、ひどく哀しんで憂え、臥することが多くて少ししか起きておらず、長ければ何年にもわたるが、早いものでは百日でだんだん痩せていき、五蔵の気が竭きてしまい、回復することが困難になるものを治す。また、肺と大腸がともに虚し、咳嗽し、下痢し、喘いで呼吸に力がなく、嘔吐し、痰や涎を出すものを治す。

 

ここで、赤で書いた文字が、現在のコロナ後遺症に一致するものです。

よく似ていると思われませんか。

また、明の時代に呉崑(1551—1620頃)が著した『『医方考』の中にも人参養栄湯の記述があり、その中には、コロナ後遺症と思われる症状が記載されています。

 


 

 

『医方考』より「人参養栄湯」

 

 

 

この『医方考』の人参養栄湯の適応症の中に、「気分が塞いで屢(しばしば)物忘れし、顔色は悪く、眉や髪の毛が堕落する」という記載があります。これもまた、人参養栄湯がコロナ後遺症の症状であるブレインフォグや脱毛に効くということを示していると考えられます。

 

 

 

引用文献

1) 矢数芳英・他:新型コロナウイルス感染症の後遺症(Long COVID)に人参養栄                      湯が奏功した一症例、漢方の臨床, 68:709-721. 2021

2) 原田 佳尚・他:新型 コロナウイルス感染症後遺症の脱毛に人参養栄湯が有効で         あった 2例.日本東洋医学雑誌, 73 No.3,342-346.2022 

3) 吉永亮・他:新型コロナウイルス感染症罹患後の著明な全身倦怠感やブレインフ         ォグなどの諸症状に対して漢方治療を行って職場復帰できた1例, 日本東洋医学           雑誌, 73 No.3, 335-340. 2022