真っ赤な名鉄電車を降りて
ゆるやかな階段を降りる。
駅から徒歩5分
改札を抜けてから彩る街路樹通りをまっすぐに歩くと
その左手に正面玄関に続くロータリーへと分岐する歩道がある。
黒色の高級車やタクシーが並ぶその先に
最上階から見下ろすと、絶景の夜景が見える白いビル
アルバイト先のホテルの正面玄関があった。
この時期、
気温より風の流れに冬の訪れを体感する。
吹く風が強くなったり弱くなったりと
落ち葉がランダムに流され、舞う。
伊吹おろしと、地元の人たちはその風のことを称していた。
心なしか、なんだか人恋しくなる季節
そして
街はクリスマスソングが流れはじめる季節
薄暗くなる商店街の街灯が
ぽつぽつと点灯しはじめる時間
一人暮らしのおれには
このクリスマスソングが虚しく心を通り抜けていく。
親元を離れて、一年が経った頃だった。
当時大学生だったおれは、
少しでも生活費の足しになればと思い
ホテルのレストランでのアルバイトをはじめた。
たかがアルバイトなのに、
採用試験として
英語の会話試験なんかがあった。
当時、ちょっと英語が得意だったおれにとっては
楽勝な試験だった。
・・今になって思う。。
あのまま英語を使い続けていればよかったなって
そんなスキルが武器になる時代になるとは思わなかった
毎日、午後最後の講義が終わってからバイトに向かう。
まだ2年生のおれは講義がフルで詰まっていた。
電飾の施されたロータリー沿いを歩いていくと
大きな厚いガラスの前にボーイが立っていて客人を迎えていた。
そのガラスドアの向こうに
オレンジ色がぼやけて広がるシャンデリアが見えている。
正面玄関の少し手前に通路があり、
自動ドアを抜けて左側へ向かうと
そこに3連のエレベータがあった。
おれら従業員は
一番奥にあるエレベータに乗り
途中、従業員専用の階で降りて着替えを済ませ
最上階へと向かう。
更衣室にはいつもパリパリの白いシャツとネクタイが用意されていた。
当時のアルバイトにしてはとても良い時給だった。
着替えてから最上階へのボタンを押す時、
なぜかいつもドキドキした。
パリパリのシャツが首もとでひんやりとして
これが緊張させ、背筋を伸ばす。
エレベータを降りた左側の窓は大きく
見下ろす道路は渋滞が始まっている。
防音のガラスである。
ここまで音は何も聞こえてこない
まるで巨大なジオラマを見ているようだった。
おれの担当する業務のメンバーは5人
社員が3名で1人がリーダーのS氏
黒縁メガネの奥の斜頸目がちょっと怖い、
痩せた神経質そうな顔立ちの35歳、独身のリーダーだ。
そして
残りの社員は女性
ひとりは清楚に着物を着こなす長い髪をぎゅっと束ねた
Kさんで30前後の素敵なお姉さん。
もう一人の社員さんが小麦色の
沖縄からきているMさん、23歳の女性
一目で南国とわかる、かわいい小動物系の顔立ちをしていた。
いつもスリムなジーンズにラフなTシャツを着て出勤し、
ユニフォームの着物に着替えるのだが、
なぜか違和感があった。(正直、似合わない)
そして、おれの他にもう一人、アルバイトの男性
こいつはおれと同じ年のJ
Jはおれと違って、ばりばり偏差値の高い大学の1年生だ。
一年浪人して入ったと言っていた。
Jはよく、『女ってえのはなあ~』と、
女の話ばっかりしていた。
なんだか嘘くさい男で、
『おい、女を紹介してやるぜ!』と、
しきりにおれに話しかけてきたが
『いいよ、遠慮しておくよ』
と、毎回断った。
こいつの風貌から想像できる女性像を考えると、
どうしても良いイメージがでてこないのと
おれには遠距離でまだ繋がっている彼女がいたからである。
仕事の内容は、オーダーをとってくるのと
後片付けである。
たくさんのテーブル席と、大中小、さまざまな和室個室があった。
部屋の片づけは2人チームで行った。
完全に扉をしめ切って行うのだが
Jの野郎と一緒の時は最悪で、
あいつは皿に残った食料を平気でつまみ食いしては
『おい、おまえも食えよ』と、おれに勧めてきた。
一度、
『あほか、おめー』と、言って
Jのケツを蹴り上げた瞬間に扉が開いた時があった。
メガネを忘れたと言って入ってきた中年男性のお客さんだ。
あれは焦った。
Jのバカのおかげでクビになるところだった。
仕事だからね、つまらない記憶ばかりを思い出すが
全部がつまらなかった訳ではない。
沖縄からきているMさんと一緒の時はドキドキした。
近づくと、すごくいい香りがする。
大人の女性の香りだ。
片づけるために締め切った個室で2人になると
マジ、舞い上がった。
小柄でかわいいMさんだった。
匂いを嗅ぎたくてわざと近くまで行ったりもした。
けど
恥ずかしくて1m以上近づけない。
まだ女を知らない若干二十歳のおれの経験値といえば
手をつないだりとか、
チューレベルのキスしかしたことがなかったのだ。
でもね、
仕事をしながらの、ただの会話の時間だったけど
おれにとっては最高な至福のひとときだった。
沖縄の方言とかを教えてくれた。
そして
一つだけ強烈に覚えている方言がある。
今でも忘れられない言葉だ。
艶っぽい眼差しで
『ねえ、、、ホーミーって知ってる?』
と、下から見上げる眼差しで聞いてきた。
意味を教えてもらって後ろに数歩、離れてしまった。
完全にからかわれたのだ。
たぶん、
動揺するおれが面白くて無理に近づいてきて言ったのだ。
やられた・・
どうせ、おれなんかは童貞のクソガキだと思われている。
そんなMさんと、数か月一緒にいると
身内のことやプライベートな話もするようになった。
Mさんは一人で暮らしている。
酒乱の父親から逃げてきたと言った。
左足にある15cmくらいのくぼみ
大きな蒼い痣を見せてくれた。
2番目の母親に車でひき殺されそうになった痕らしい。
Mさんが高校に上がった頃、
最愛の母親は病気で他界したと教えてくれた。
そして
すぐに新しい若いお母さんが来た。
何があったのかはわからない。
わからないけど
足にあるのと同じ、すごく深い傷跡が
心の中にもあるんだな・・て
まだガキだったおれにもわかった。
最初の母方の優しかったおばあちゃんの住所を頼って
名古屋に来たんだけど
そのおばあちゃんも既にこの世に居ないひとだったらしい。
おばあちゃんの住所を糸口に見つけた
お母さんの兄、ようは伯父さんと連絡がとれて
今の仕事も紹介してもらったって言ってた。
Mさんはコロコロとよく笑う、笑顔が素敵な女性だった。
頭もすごくよかった。
お母さんの教えの
笑顔でいれば、きっと幸せになれるよ
って言葉を大切に
いつかは誰よりも幸せになるってそう信じていると
強く語っていたのをすごく覚えている。
実は
そんなMさんに心をひかれ始めているおれがいた。
Mさんは素敵な大人の女性だ。
賢くてかわいい。
ガキのおれとは男女の関係はありえない。
だって、おれには遠距離の彼女がいるじゃないか!
と
自分自身にもそう言い聞かせた。
だから
自分の気持ちには重たい蓋をしていた。
そんなある日、
事件が起きた。
ホテルの従業員専用フロアで着替えを済ませ
最上階へのエレベータに向かうと
Mさんも着替えてエレベータの前にいた。
『おはようございます』って
いつものあいさつをしてエレベータに乗り込んだ。
エレベータの中は2人だけの空間だ。
『ねえ、・・』と
おれに話しかけてきた。
なんと、
信じられないことが起きた。
最上階までの時間に、おれはMさんに告白されたのだ。
おれは頭の中がパニックになった。
おれは絶対に冗談だと思っていた。
今まで、知人を通して告白されたことはあった。
だけど
面と向かって告白されたのは初めてで
しかも
相手はこんなに素敵な大人の女性で
しかも
おれときたら皮っかむりで女も知らないガキだ!
絶対にありえない!!
気持ちには重たい蓋をしていたおれだった。
『何、冗談言ってるの!おれ、彼女居るし・・』
から始まるストレートなお断りの返事をした。
口が動いちまった。
・・おれは、自分の気持ちに嘘をついた。
本当は大好きだった。
遠距離の彼女がいたのは本当だったけど
もう、何か月も音信不通で会ってもいない。
『そうなんだ・・』『そうだよね』『冗談だよ!』
て笑って、そう答えた。
でも、なんだか空気が違う。
いつもとMさんの雰囲気が違う。
なんとなく感じ取った違和感が後を引いた。
バカでクソガキだったおれには
彼女の真意なんてわかるはずが無かった。
おれは
大人の男になるチャンスを逃したのだ。
数か月後、
話題にした遠距離の彼女は別の男をつくって、
しかも妊娠しておれから逃げて行った。
とんだピエロやろうはおれだった。
なんだったんだ・・
あの、
一生懸命につくった重い重い蓋は!!!
そんなことは、ずっと忘れていた。
あれから10年以上が経過して
ひょんなことから、あのころの事を思い出した。
そして、今になって
あのころのMさんの気持ちを理解した。
色々と思い出した。
Mさんの表情や
Mさんのいたずらとか
Mさんの言葉
大人になった今だから、こうやって
Mさんの気持ちもわかって
思い返して書くことができるが、
本当に当時は鈍感なガキだったから
10年後の未来に後悔して心が痛んだ。
もし、おれが大人の思考ができていたら
もし、あの時、Mさんを受け入れていたら・・
なんて
考えてしまった。
もし、Mさんと付き合っていたら
田舎に帰ってこなかっただろうな。。
そして、今と違う人生があったんだろうな。。
それもまた、違う素敵な未来があったんだろうなと
そう思う。
笑顔が素敵なひとで、悪い人はいないから
絶対に
そう思う。
だから、
だから
Mさんは、今は幸せを見つけていると
そう思う。いや、信じている。
ひとつだけわかる。
Jに女を紹介してもらわなかったのは正解だった。
そりゃそうさ
おれは別の幸せを見つけて、今、幸せだから。
偶然にも、知人の結婚式でバイトしていたホテルに行った。
最上階のレストランもそのままだった。
そして
最上階の、いつも下界を見下ろしたエレベータ横の
大きな窓もそのままだった。
ただ
見下ろす夜景は変わっていた。
いくつもの宝石箱をひっくり返したように
幸せそうな光が見える。
きっと
この宝石のひとつに
Mさんの見つけた幸せがあるんだろうな。。。
そんな気がした。
