「古文ナルシスト」③



 (わわ。・・・角川の「日本伝奇伝説大事典」じゃん。)
 彼は古本屋の、独特の雰囲気が好きだった。だから仕事が終わると、ほぼ毎日、古本屋を巡る。
 特に狭い通路に天井まで本が並べられている光景が大好きで、そんな通路を何本か持つ古本屋を見つけると、彼は、そこへ足繁く通った。「日本伝奇伝説大事典」の大きくて分厚い本を、そっと本棚から取り出して手に取る。慎重にやらないと、本棚から大型本を取り出すのは難しくて、うっかりすれば落としてしまう。本好きの彼は、本を粗末に扱うことが許せない。
 実は、彼は既にこの本を持っている。だけど、版が変わって内容が変化してないかとか、どんな人が使っていたのかとかが、気になってしまうのだ。この本は、辞典と言うよりも資料集としての意味合いが大きいから、何を調べて、何に興味があったのかが、本のページの疲れ具合に現れる。・・・でも、この本は、前の持ち主にあまり使われていなかったようだ。仕方なく、「鬼」のページだけ開いて数行を読んでから、丁寧に箱に入れて本棚に戻した。流石に「東洋文庫」とかはないよな~とか、綺麗な大系本(注:岩波の日本古典文学大系)はあるかなとか、そんなことを思いながら、人があまり来ない一画を、彼はそぞろ歩く。彼の目当ては常に、大系本の「古事記祝詞」の綺麗な初版本なのだけれど、ついぞ見かけた例はない。閉店間際の店内は人が少なく、彼が帰り道に立ち寄るとたいてい、この古本屋にお客は彼ひとりだ。

 古本屋は、ハードカバーのぶ厚い本を買う場所。

 そう心に決めては、いるけれど、お目当ての本も見つからず、彼はCDコーナーで500円均一のCDを一枚、手に取ると、清算を済ませて店を出た。何も買わないのも気が引けるので、彼は2、3回に一回は、必ず来店した店で何かを買うことにしていた。店を出て気分的にはもう少し古本屋を回りたいところだけれど、遠くまでいかないと深夜までやっている本屋はない。仕方ないので彼は、自分のアパートに向かった。
 玄関の鍵を開けて、明りのスイッチを入れる。
 それだけのことなんだけど、そのたった数瞬の間が、彼は苦手だった。
 冷たい蛍光灯の明かりさえ点いてしまえば、別に、何でもないのに。誰もいない真っ暗な部屋は、どこかひとを拒絶する雰囲気を持っている。
 部屋に帰った彼は、スーツとシャツをぽいぽい脱ぎ捨てて楽な格好になると、遅い時間のニュースをつけながらスーパーで買ってきた食事をした。
 買ってきたバーボンには、手をつけなかった。
 そのまま、パソコンを立ち上げキィを叩く。

   海底に梅花の群れが揺らめいているのが見えた。
   漆黒の水底に、白梅の花たちが朧に輝き、揺らめいている。
   木々の枝がまるで白骨のように、ぶ厚いガラスごしに浮かび上がった。
   サーチライトに照らされて、白々と樹林が続いているのが見える。
   むろん海底に梅の木が生える筈もなくそれらは・・・・・・

 ぱたぱたとキィを弾いていたかと思うと、突然、彼の動きが止まった。
 「・・・・・・。」
 そのまま固まる。
 こうなると、・・・もう駄目だ。逡巡し細部に拘泥したまま、「いる。」だの「いた。」だの、微細な文末の違いをああでもないこうでもないといじった挙げ句に。
 「書けない・・・。」
 そういって、ぱたん、彼は後ろに倒れた。
 しばらく、そうしてから。また、起きあがって、数行書いてまた倒れて。・・・それを何度か繰り返して。
 彼は、ようやく、書くのを諦めた。見れば、もう外は僅かに明るくなり始めている。ぼんやりと、数時間前に買ってきたCDの袋を開けてみた。

 SACRA「ついのすみか」

 聞いたこともないアーティスト。曲のタイトルには童歌が連なる。
 何気なくプレーヤに入れ、アンプのスイッチを入れると。
 「・・・・・・! 」
 彼がまったく予想していなかった、ドキドキするような音楽が流れだした。