新撰組鬼神(もののけ)録~総司~
――旧暦2033年問題と言うものがある。
日本では、明治時代に廃止された旧暦を未だ私的に使っているのであるが、2033年、つまり今年に限ってその天保暦ルールが破綻してしまい、旧来の方法では暦が作れないのである。もちろん、いくつかの方法で解決は可能なのであるが、あくまで『私的』な暦であるため公的に暦が定まる訳でなく……結局は数種類の旧暦が並立して存在すると言う不思議な事態が発生してしまった。お陰で今年の『中秋の名月』は2回ある。公式なものではないにせよ、暦が定まらないとなれば、秩序だった時の流れに綻びが生じる。時間に綻びが生まれれば、そこに『魔』が沸く。あまつさえ今年は北極と南極で日食が起こり、その2回目の日食はこの綻びの時間――ふたつある中秋の中に入ってしまう。日食もまた 、古来 より妖物(アヤカシ)の出没する異形の時間である。
かくして、2033年の秋は様々な思惑の人間や人間以外の何かが入り乱れ、人知れない世界で大騒動が巻き起こる。
これは、そんな大騒動の始まりのお話。
2033年9月8日、つまりは、今年ひとつめの中秋の夕暮れ時のこと。まだ出て数時間ばかりの月は、京都のビル群の隙間からその赤みがかった姿をぼかりと覗かせている。昔に比べてビルは立ち並んだものの、『通り』に限って言えば京都の町並みはあまり変わらない。つまりは……曰くのある場所も、あまり変わらない。堀川通と一条通の交わる橋もそんな古くから『曰くあり』な場所のひとつで、『戻り橋』と書かれたコンクリート製の橋のたもとにふらっと小柄な人影が現れたのは、おあつらえ向きに昼と夜の隙間の時間――逢魔が時だった。本来であれば、人の顔すら判別できない薄暗闇の時間なのだが、昨今は街中であればLEDの灯りが至る所を照らし出して、こんな時間でも眩いくらいに青白く明るい。
「………(暑い)。」
身長は150センチ弱。背は低いけれど、雰囲気は男子高校生と言った出で恰好で、学ラン風の制服を襟までぴっちりボタンを留めて着て、当たり前だが暑そうに喘いでいる。肩にはポスターを入れるタイプの巨大な書類ケースを掛けて、と言うか身長が低すぎてどっちかと言えばj地面を引きずりそうな感じに背負って、ふらふらと橋の欄干に歩み寄ってもたれかかると、俯いていた顔を上げて何かを探すようにきょろきょろと辺りを見回した。
――性別は分からないが、どきっとするほどの美形だ。京都盆地特有の蒸し暑さに上気した頬も、時折その細い首筋を這う汗も、暑苦しさなんて微塵も感じさせずにむしろ魅力に変えてしまうほどの美貌が街の光りに浮かび上がって、その瞬間、気だるい夏の空気がそこだけ別世界のように変わってしまった。シンプルに短く切りそろえた黒髪の下で、ふてくされた猫みたいに不機嫌そうな目つきだけが玉にキズだが、真っ白でつるんとした肌も、シャープだけれど可愛らしい体つきも、天使のような美しさだった。
何かを探すような視線を周囲に送っているのは、人待ちをしいているのか、コンビニで冷たいものでも探しているのか……ちょっとしてすぐにがっくりと目線を下げた所を見ると後者だったようで、不機な目つきをより一層凶悪にして(暑っぅぃ……)と可愛らしい声で恨めしそうに呟いた。
「京は初めてかい? 」
「――ぅぁぅっ!? 」
急に耳元で声がして、と言うか思いっきり耳に息を吹きかけられて小柄な体がぴょんっと飛び上がった。
ふわりと甘い香り。
振り返るといつの間にか男がひとり、すぐ後ろでかがみこんで覗き込んでいる。声をかけたものの、相手が急に1メートル近くも飛び跳ねたから男も驚いて、慌ててごめんごめんと謝りながら小さな箱を差し出して来た。タバコかと思ったら昔ながらのシガレットチョコ。甘い香りの正体はこれだったらしい。
「……い、いらない。」
無茶苦茶警戒感と不快感を露わにした視線を軽くスルーして、男は一歩後ろに下がると陽気に笑いかけて来た。……無っ茶アヤシイ。そして、ちゃんと立つと意外と背が高い。身長は180センチ後半くらいで、割と引き締まった体つきをしている。耳や拳はキレイだけれど、踵に重心を乗せ切らない立ち方といい、優しいけれど油断のない視線といい、絶対武術の心得がありそうだ。服装も印象もパッと見とても若そうに見えるのに、日に焼けた褐色の肌は細かい無数の皺で覆われていて、短く刈り上げた真っ白な髪と相まって男を年齢を分からなくしている。悪い人ではない。でも、絶対にこの男はまともな一般人じゃない。
「俺に用があるのはキミだろ? 臭いで分かる。――真神だ。俺は、真神残月(まがみざんげつ)。俺を呼び出せるって事はそれなりのコネのあるヤツなんだろうけれど……と、…その顔、目つき悪すぎだけれど見覚えがあるな。」
そう言って真神はぶるっと体を震わせた。ぼそっと(秋葉原絶対防衛線の英雄? マジか!? )と驚いたように呟いた所をみると制服姿の高校生のことを知っていそうだったが、
「突然ご無理を言って申し訳ありません。ぼくは――」
「あ、……ああ、いいよ。……ええっと、キミはどうせ酒匂(さかわ)なんとかちゃんって言うんだろう? 酒匂家の人間だったら、真名を名乗らないのは知っているし、嘘の名前を聞くくらいなら聞かない方が俺はいい。」
真神はそう言って、わざとらしく唇に人差し指を当てて制すると、
「だから、俺は勝手にキミを天使ちゃんって呼ぶことにする。」
と続けた。
「嫌です! 」
勝手に命名された天使ちゃんが叫ぶのを、真神はさらっと無視した。
「――逆にひとつだけ質問していいかな? 」
「なんですか? 」
天使ちゃんの只でさえ悪い目つきが更に険悪になる。
「俺さ、しばらく東京行ってないんだけれどさ、京浜東北線って相変わらずいつも遅延してるの? 」
「………………遅れない京浜東北線は、京浜東北線じゃありません。」
どことなく呪詛の篭ったその声に、真神は納得したようである。うんうんと頷いてから、真神は片手に抱えていた大きめの書類封筒を天使ちゃんに手渡した。
天使ちゃんは丁寧に礼を述べてからそれを大事そうに受け取り、そっと中身を確認する。黴臭い香りと、――それと見るものが見れば分かる妖気がすぅっと封筒の口から漂い出した。妖気は煙のように覗き込む天使ちゃんへと近づいて行ったが、途中でびくり、と動きを止めるとそのまま空気中へ溶けて消えていった。
「ご依頼のブツ――『今昔物語集 巻第二十七 本朝付霊鬼』の現存する最古の写本だ。お願いだからどうか丁寧に扱ってくれよ? 京大保管の国宝って代物だから、本当は勝手に持ち出しただけでも俺の首が飛ぶんだ。」
おどけた口調の言葉に、
……こくん。
天使ちゃんが神妙に頷いたのを見て、真神はちょっとだけその素直さに不安を抱いたようである。小声で、
「ちなみに天使ちゃん、戦闘経験はある? 」と尋ねた。
天使ちゃんは一瞬、まるで少女みたいに不安そうな目でふるふると首を振りそうになったが、はっとしてすぐ不機嫌そうな目つきに戻ると、
「ない、……です。」
そう言って射るような視線で真神を見てから、ふいっと視線を逸らして地面を見つめた。
頬から首筋にかけての肌の色が青白いくらいに真っ白で、誰の目にも天使ちゃんがかなり緊張しているのが分かる。
「じゃ、止めよう。」
真神は天使ちゃんの手から封筒を取り上げようとしたが、天使ちゃんはすばやくその手を避けると、封筒をぎゅっと抱きしめた。
「だめ、です。――お願い、します。続けて……ください。…………こ、このまま帰ったらぼくは親に叱られるんです。」
そう言って天使ちゃんは真神を見つめた。
懇願するような瞳はうっすらと涙を浮かべていて、さっきまでの凶悪なまでの不機嫌さは跡形もない。
(うわ、自分で命名しておいてなんだけど、こうして見るとマジで天使だなこいつの外見……。)
思わず見とれてしまって、それに気付いて慌てて咳払いをすると、残月は少し声を落として聞きにくそうに訪ねた。
「………………親ってさぁ……もしかして、真名火か? 酒匂真名火(さかわまなか)――? 」
こくこくこく。
天使ちゃんが激しく頷くのを見て、
「マジかーーー!? 」
真神が叫んだ。本気で動揺している。
「うわっ、あの剣術バカが子供を!? ありえない……マジか? 」
「えと、……母を知っているのですか? 」
「知ってるも何も超ご存知だよ。俺が知ってるのは2012年までのあいつだけれど……あいつの叱るは、イコール殺すってことだよな? 」
こくん。
素直に頷く天使ちゃんを見て真神はしばらく考えてから、
「じゃ、まぁ、しょうがないか。」
そう言った。
とたんに天使ちゃんの表情がぱぁっと明るくなる。と、ついでに目つきの悪さも戻った。もしかすると機嫌が悪いのではなくて、単に目が悪いのかも知れない。
「この本の中に棲んでいる狐に用があるんだよな? 」
「はい。」
「依頼内容だけじゃどの狐なのか見当はつかないが、この本に出てくるもののけは全部ヤバい奴だぞ? 」
「覚悟の上です。……お願いします。」
「うん。……じゃ……まぁ、俺予測でたぶん大人しそうなヤツから始めるか。」
真神はそう言うと、ぱぱんと両手を打ち鳴らし、
『狐、變女形値幡磨安高語第卅八(狐、女の形に変じて播磨安高にあひし語第38)』
朗々と何かのタイトルを暗唱した。
とたんに、ばさり、と天使ちゃんが手にした封筒から酷く古い書物が飛び出すと勝手に開き、ばらばらとページが繰られて丁度真神が読み上げた箇所を開いて天使ちゃんの手の上に落ちた。
真神の声に反応するように、ぽうと微かに文字たちが輝き出す。
「………………。」
漢字だらけのそのページを目にして天使ちゃんが明らかに動揺しているのを見て、
「あー、読めない、か。……んじゃあ、俺が超適っ当に現代風に訳して読んで、やっからストーリーはそっちで理解しろや。」
真神はそう言って、じわじわと夕闇が落ち始めた空に向かっていい声で語り始めた。
ちょいとばかりむかしむかしのある日の事だ。とある若い将校さんが、部下も連れずに深夜、家路を急いでいた。まだ若いが、男っぷり良い美丈夫で、腰には小振りの刀を帯びただけの軽装で、月明かりだけを頼りにライトも点けずに歩いて行く。さて、男が宴の松原を通りがかった時に、ふと前を見ると制服姿の女学生が歩いている。
都の中心と言っていい場所に、ぼかりと広大な森がある。それ自体はこの国で珍しい事でないにしても、さて、夜更けにこんな寂しい小道を若い娘が歩いているのはどう言う事だろうか?
青年将校――播磨安高と言った――は、怪訝そうに夜道を1人歩く女学生を凝視した。見れば、夜目にも鮮やかな薄紫の襟のセーラー服が煌々と照る月光(つきかげ)を艶々と反射し、白い布地の裏には黄緑色の下地が透けている。その容姿は、月明かりの中白々と華奢な肢体を浮かび上がらせ、何とも言い様もなく美しい。
真っ黒な長い髪が二筋、三筋、女学生の真っ白な首すじにうちかかって、ぞっとするほど美しいが、視線を這わせた先の顔立ちだけは、こんな夜更けに何故か目深に被った帽子に遮られ て見る 事ができない。
安高は女に興味を覚え、無粋な軍服姿である事も忘れてガチャガチャと装備の音も騒がしく女へと近寄って行った。
「おい……あ、いや。こんな夜更けにどの様な方がいったいどちらへおいでなのでしょうか? 」
恭しくお辞儀をして見せながら、安高の目は素早く女を値踏みし、邪な視線をちらちらと女の二の腕や太ももに遠慮なく這わせた。
女はと言うと、まんざらでもなさそうな素振りで、「人に呼ばれて西の京へ参ります。」
そう、涼やかな声で返事を返した。
「人に呼ばれて西の京へ参ります。」
……その涼やかな声がいっそう安高の興味を引いた。
(一体何処のご令嬢か? )
が、月光は眩いばかりに照らすのに、女学生は巧みに安高の視線から逃れる。ただ、ちらちらと真っ白な頬や首すじや鮮やかな口元が垣間見えて、いつしか安高は、少女に夢中になっていった。
そして、その可憐な素顔をひと目拝もうと、女学生の小柄な背丈に合わせてぐっと顔を近づけようとした時である。少女はまるで猫の様にするりと身体を躱すと、安高があっと気付いた時には、もう数メートルも先を軽やかに歩いていた。
……ただ、女学生はそれ以上安高を遠ざけず、やがてはまた、安高と一緒に並んで夜道を歩き始めた。
「こんな夜更けに女性の一人歩きは危険でしょう。この安高がお送りしましょう。」
「どちらまでお送り下さるの? 」
「人の所とはおっしゃらずに、是非安高の家においで下さいませんか? 」
「まぁ……あなたがどのような方とも存じませんのに。」
そう言って俯く仕草がどうにも可愛らしい。ついに抑えきれなくなって、安高は少女の手を掴むと小さな身体をぎゅっと抱き寄せた。少女はあっさりと安高の腕の中に収まり、瞳こそ見えないもののそっと安高を見上げている。
女学生の身体からふわりと良い香りが立ち昇って、安高は一瞬、くらくらと眩暈を覚えた。ふと前を見れば、話に夢中になって歩く内に市中へと入っていたらしく、お誂え向きに立派な門柱がふたりの傍にある。安高はその物陰に少女を連れ込むと、
「こちらへ……あなたにお話ししたい事があります。」
そう、少女の耳元に囁いた。女学生が嬉しそうに目深に被った帽子姿のままこちらを見上げている のを見て………………。
(!? なぜこれだけ近くで見上げているのに、この女の顔が見えない? )
ふと、安高の脳裏に疑問が過ぎった。
……そう思ってみると心なしか、女学生の手が力を帯びて安高を掴んでいる様である。そう言えば、この辺りにはたちの悪いきつねが棲むと聞いた事が、と思い当たるや否や、安高は軍人らしい身のこなしで女を突き話すと返す手で女の髪を掴み、
ぞらり
帯びた刀を抜き放ち女の首すじにぴたりとあてた。
「……おい。着物を脱げ。」
冷たい言葉でそう言うと、細い喉元に押し付けた刃に力を込めた。女の白い首に銀色の刃先が皮膚を食い破りそうにめり込み、女は驚きのあまり声さえ失ってがたがたと震えている。
と。
しゃあああああっ
澄んだ水音が迸ったかと思うと、安高が嗅いだ事もない酷い悪臭が立ち昇り、
こんこ んっ
余りの臭さ に安高が力を緩めたその瞬間。女の姿はたちまちきつねの形に変じ、物凄い速度で大通りを逃げ去って行った。
「……クソっ」
残された安高のズボンにはきつねの尿がべったりと付き、その臭いはどんなに風呂に浸かっても7日は取れる事が無かったと言う。
それから、怒り狂った播磨安高が随分長い間あちらこちらときつねを探し回ったが、もう2度と安高の前に現れることは無かったと言う………………
「……これも安高に思慮と胆力があったからこそ、きつねに、……えーっと、きつねに……、」
もう間もなく話が終わるだろうと思われた、その時。真神はそこまで妖しげな訳を語ると、急に言葉を詰まらせた。どころか、小さく、あ、しまったと呟いている。
「ちょっ!? ……ど、どうしたの? 真神さん!? 」
真神は、ちょっと迷って、
「……きつねに(ピー)される事が無かったのである、と、人々はそう語り伝えたと言うことだ。――天使ちゃんすまんっ。最弱クラスを呼ぶはずが、最強クラスを呼んじゃったかも……」
途中に放送禁止用語みたいな擬音を入れたのも気になったが、聞き捨てならない台詞の途中で真神の声は急に途切れた。
――瞬間。
明るい京都の街並みは消え果て、辺りは突如闇に包まれた。
……いや、包まれたのではない。
ここはきっと最初からずっと暗い、そもそも光など届かない場所なのだろう。
一瞬前まで目の前に居たはずの真神の気配は消え去り、代わりに別の何かが目の前に立っている。
「ま、真神さん……? ちょ、……ちょっとこれは、流石にヤバ過ぎ……ですよ? 」
引き攣った声で天使ちゃんが抗議をしても、もはや真神はそこにはいない。
代わりに、不気味な女の笑い声が闇の中に響く。
「くくくくく。――あらぁ、美味しそうな子だこと。」
ぞぉっとするような冷たい声。
真っ暗闇で何も見えないはずなのに、天使ちゃんの脳裏には何故かさっき聞いた話に出てきた女学生の姿が浮かぶ。
いや……話の姿とは微妙に違う。
おそろしく古風な服。蠟細工のように、死人のように真っ白な肌。長い髪の毛までが真っ白で、風もないのにゆらゆらとゆらめいていた。
女学生の体は幽鬼のように空中に浮かび、その周辺にはびっしりと夥しい数の狐火が、あかあかと、でも何かを照らし出す訳でもなく飛び交っている。
「美味しそうだけど……貴方はどっちなのかしらね? 」
ふわふわと女学生が近づいて来て、思わず後ずさった背中に何か壁のようなものが当たった。手で探ると、大きな柱のようで、近くには更に別の柱もあるらしい。
――門柱?
まるでさっきの話の中に迷い込んでしまったかのようだった。
どんっ。
氷の塊のような冷気に圧迫されるようにして、天使ちゃんは冷たい石の柱に押し付けられた。
はぁはぁと呼吸音が聞こえ、冷たい息が体のあちこちに吹きかかる。
全身を嘗め回すみたいに視線が這うのが分かる。
――見られている。
「んんん? 分からないわね。」
焦れたような声がすぐ近くでして、制服の衣擦れの音が聞こえたかと思うと、生命あるものとは思えない凍てつくような指先がすぅっと天使ちゃんの唇を触った。
「貴方はどっち? 男――? 女――? 」
「……。」
冷たい指先が頬から首筋、うなじへとゆっくりと移動して、
バチッ
天使ちゃんの洋服に触れた瞬間、爆ぜるような音がしてぱっと火花が散った。
一瞬、さっきから脳裏に浮かんでいる姿そのままの、真っ白な長い髪の女学生の姿が闇の中に浮かび上がる。先ほど真神が読み上げた話に出てきた通りに、髪で目が隠れていて表情が分からない小柄な少女だった。
「忌々しい護符を身につけているのね……それなら――」
少女は天使ちゃんの右手を掴むとおそろしい力で捻り上げ、
「脱げ――その着ているものを全部。」
そう男の声で言った。
「……脱がせて、みたら? 」
喘ぐように天使ちゃんが呟くと、女学生は心底楽しそうに哂った。
「ふふふふふ……良いな、その威勢。強力な護符に守られている自信か? そう――ならば、名乗ろう。私は、武徳院。名高き武徳殿は松原の狐。」
(もののけが自ら名乗った? )
天使ちゃんの表情が蒼白に変わる。
想定外どころか、想像すらしていなかった事態だった。
名前を知られると言うことは、魔物にとって力を失うことに等しい。それなのに名乗ったと言うことは、本当の名前を言っていないか、……それとも双方の間に明確な力の差があることを物語っている。――しかも名乗ったその名前が武徳院とは。武徳殿の松原の狐とは。……武徳殿の松原は別名、宴の松原と言い、内裏のすぐ傍にある広大な空き地だった。そして、この場所で有名なのは実は狐ではなく「鬼」である。今昔物語集同じく27巻の第8話に、「於内裏松原鬼成人形噉女語第八(だいりのまつばらにしておにひとのかたちとなりておんなをくらうことだいはち)」があり、見知らぬ男に誑かされた女が惨殺死体で発見される話が残されている。「日本三代実録」によれば、この今昔物語集記載の事件は仁和三年(887年)八月十七日に実際に発生したものとされ、正史として扱われている。仮にこれらの書物の記述が正しいものだとすれば、目の前のこの少女の正体は、狐ではなく『鬼』と言うことになるが……もし本当に鬼であるのならば、狐などと嘘は吐けないはずである。
「どうした? ……お主は名乗らぬか? 」
くすくすくすくす。
女学生は嘲笑う。
天使ちゃんはじっと考え込んだ後、
「――環。ぼくの名は沖田環(おきたたまき)だ。」
きっぱりと名乗った。
とたんに、ばさりばさりと何かを切り裂く音が響き、天使ちゃん――沖田環の着ていた衣服がぼろぼろと裂け始める。
「ホホ……よくぞ名乗った。お蔭でその厄介な護符どもを切り捨ててやったぞ。」
「構わないよ――」
環はそう叫ぶと、勢いよく学生服の上着を脱ぎ捨てた。脱ぎ捨てなくとも全身の衣服が裂け崩れていたから、ほぼ一糸纏わぬ環の裸体が闇夜に浮かび上がる。闇から環の体を浮かび上がらせたのは、脱ぎ捨てた上着の裏地に並ぶ無数の青い光だった。ぽうぽうと青い蛍火のように蠢くそれらは、良く見ると何やら文字 の書かれ た小さな紙切れで、ふわふわ環を護るようにして空中を漂った後、すっと天空の一点を目指して駆け上った。
と。
突然バリバリと雷鳴が響き、空を一本の稲妻が切り裂いた。
途端に、ばすんと闇の一角に丸く穴が開き、そこに炯炯と光を落とす月が現れた。
「――ぼくも、お前の結界を破いたから。」
視線を伏せたまま環は呟いた。雷に驚いた瞬間を逃さず、武徳院の指を振り払って数メートルも先に環は立っている。手にはいつの間にか肩に背負ったポスター入れの中身――細身の日本刀が抜き身の状態で握られていた。
武徳院は、一瞬だけぽかんと驚いた風を見せたが、長い髪の奥から環の美しい裸体をまじまじと見つめ、
「ホホホ……おぬしは女か。残念じゃったの。男ならば死なずに済んだものを……女には用は無いのじゃ。どれ、喰うてやろう。」
べろりと赤い舌で唇を舐めた。素人丸出しの構えの環の日本刀には目もくれない。
「――お、お前だって、男じゃないか……。」
環はそう言うと、武徳院の喉元を指さした。
示された先には、確かに立派な喉仏がある。
「そうじゃ。私は確かに男じゃが、男にしか興味がないのじゃ。」
そう言って唇を笑みの形に歪めつつ、すたすたと近寄ってくる武徳院へ向かって、
「……。」
環は小さく何かを呟き、すっと構えを改めた。
「む――? 」
武徳院の歩みが止まる。
歩みを止めたまま、じっと環の様子を伺っているようである。
もう口元に笑みはない。どころか、何かに怖気ずくかのように、半歩足を引いてさえいる。恐るべき妖物であるはずの武徳院にそうさせてしまう程に、空気ががらりと変わってしまっていた。
「お主――替わりおった、な? 」
環は答えない。
だが外見こそ環のままだが、その中身はまるで別人に入れ替わってしまったかのようだった。
変則的な構え――身体を少し猫背気味に、やや背を丸めた姿勢で平晴眼に構え、その切っ先は斜め下からびたりと相手の喉元へと向けられている。堂々たるその姿は、解き放たれる寸前の無数の矢のようだった。おそらく一瞬でも隙を見せれば、たちまち全身に刃を突き立てられてしまうであろうおそろしい構え。武徳院はそこまで見切ると、もう自分が進むことも退くことさえも許されない相手の間合いに踏み込んでしまったことを悟った。
「――それは天然理心流……知っておるぞ。良く……良く知っておる。私はその構えから数多の武人を切り倒した素晴らしき男を知っている………………ああ……ああ、なんと懐かしい。」
その構えでさえおそろしいのに、環の全身からは目に見えるほどの殺気が吹き上がり始めていた。
めりめりと空気が音を立てそうに軋み、武徳院は視界がぐらぐらと歪みそうになるのを感じた。
「この気組みは……忘れようがないな。この気に切り裂かれるのもまた私の本望であるが……まずは詫びよう。沖田環と言ったか……女と申して悪かった。お主は、男だ。」
武徳院は頬を紅潮させてそう言うと、その場にすっと座り込んだ。そのまま長い間環へ向かって頭を垂れ、それから長い髪を掻き分けて薄紫色の優しげな瞳を見せると、じっと環を――いや、環の中に宿る男の魂を見つめた。
「――お帰りなされたか、藤原春政どの。私の心底惚れ申した、男の中の男よ。」
武徳院は幕末最強剣士――沖田総司藤原房良(おきたそうじふじわらのかねよし)の名を幼名で呼ぶと、
「ご無礼仕った。お前様に切られるのならば本望――さあこの身、お好きにされい。」
そう言って嬉しそうに笑いかけた。
「……。」
その様子を見て、環の中の男もふっと笑ったようである。無言のままさっと剣を引くと、惚れ惚れするような見事な仕種で刀を鞘に納めた。と同時に、周囲を圧していた殺気も迫力も消え失せたようである。座る武徳院の前には、いつの間にかまた環に戻った素肌の小娘がぽつんと立っていた。
「武徳院様、武徳殿の狐様。ぼくはあなたを斬りに来たのではなく、探しに来たのです。」
「――? 」
「沖田総司様に『菊一文字』をお授け下さったのは、あなた様ですね? 」
「――如何にも左様……だがそれは、春政どのに私の命を救って頂いた礼としてお渡ししたもの。授けたなどと大層なものではない。」
「……沖田総司様は21年前の大日食の最中(さなか)、眠られていた今戸神社の地でサルタヒコ型の神として神成(かみな)り給いました。その際、大いに荒ぶる神として成り給われました故、我が母、酒匂真名火の手により秋葉原の地に鎮座せられ、今は同地を守る神として祭り奉られております。」
環は神妙な面持ちで武徳院へ口上を始めた。
「沖田総司様が母を座と成し給いて生まれましたのが、このぼくでございます。そして時定まらぬ今年、秋葉原と呼ばれるかの地では時定まらぬ大変動の波を受け、異形の鬼神(もののけ)どもが現出致し動乱を巻き起こしてございます。故に万が一この菊一文字を損なうことがあってはならぬと、この刀を元の持ち主――京都に今も棲むと伝わる狐様へお返しするようにと、申し付かって参りました次第でございます。」
環はそう言って、手にした刀を恭しく武徳院へ渡そうとした。
「いらぬ。」
「……そこを是非に。」
「いらぬ。それはもう春政どののものじゃ……それより、のう? 」
「はい? 」
「まどろっこしいことを申すな。もとより私はすべてを春政どのに捧げておるのじゃ……」
「は、はあ。」
「厄介ごとが起きてるのじゃろう? ならばこう言えば良い。手伝え、と。さ、私を秋葉原とやらに連れて行くのじゃ。」
言ったかと思うと武徳院はなんだか嬉しそうに、くるくると回ったかと思うとぱっと大きな狐火へと姿を変え、
「え!? ええっ!? ちょ、ちょっと待って……○×△□ぐにゃぁ……」
多数の狐火を引き連れて環の口から身体の中へ入り込んでしまった。
「……お帰り――って、おわっ、お前なんで裸なんだよっ」
環の姿が消えていたのはほんの数分。
なんだかんだで優しい男なのだろう。真神はその間ずっとそわそわきょろきょろしていたが、大気の中に『帰還の兆候』のニオイが満ち始めたのを嗅ぎ取ると素直に喜べばいいものを、急に態度を無関心でどうでもよさそうなものに改めた。本当は心の中でしっぽをぱたぱた振ってるくらい嬉しい癖に、この男はこの男で感情表現が屈折してると言うか、相当下手らしい。
「――た、ただいまっ」
環は環で急に明るいLEDきらめく世界へ戻されたために目の調節が追いつかずしばらくぼぅっとした様子だったが、視界が戻って自分がポスターケースを肩から提げている以外は素っ裸で京都の街中に突っ立っていることに気がつくと、裸を隠すどころかいきなり真神に抱きついた。
「バカ……まっ、待てっ抱きつくなっ! 」
「……武道の心得その13、危機あらば敵の懐に飛び込むべし、ですっ」
「いや……それは間違ってないが……お願いだから離れてくれっ! こんな街中でおっさんが裸の美少女に抱きつかれていたら、絶対警察に捕まる! 」
「嫌です。――離れたら見えちゃう! 」
そう言って環はよけい真神にぎゅうっと抱きついた。
「見ないから! いや、見たいけど絶対見ないから! 」
実は油断してたとは言え、真神が他人にあっさり抱きつかれることも、それを真神が振りほどけないことも、達人のレベルをとうに突き抜けちゃっている真神にとってはあり得ないことだったのだが、そのあり得ないことが起こっていることで真神は珍しく取り乱した。――かつて2012年の大日食の際、東京都清掃局長として多数の魔法化部隊を率い、出現する魑魅魍魎どもを薙ぎ払って首都を守った男が、たったひとりの少女に抱きつかれて取り乱している様は、かつての部下が見たらどう思うだろうか? 因みにかつての部下の筆頭格は酒匂真名火と言う名の剣術使いである。
「あーってもうっっ」
叫ぶと真神は、環の首根っこをねこみたいに掴んで無理やり引き剥がすと、
「着ろ。」
と言って、自分の服をぽいぽい脱ぎ捨てては環に被せ、
「こっち見るなよっ」
と叫んだかと思うと、空にかかるまんまるい月を見上げ、『吠えた』。
……10分後。
京都の路地を少女と大型の犬が歩いている。
(――いいか? 首輪とリードつけてるっぽく振舞えよ。)
驚いたことに犬はぼそぼそと少女に向かって話しかけている。小さな声なのでよほど近づかないと聞こえはしないが、見る人が見ればその犬の外見がおかしいとすぐに気がついただろう。妙に大きいし、しっぽがふさふさなのだ。
くすくすくす。
だぶだぶの男ものの服を着た少女は、その犬を見て可笑しそうに笑っている。
(こっち見んな! )
「だって~、本当にわんこだったんだもん。」
(わんこ違う! 狼だ。日本狼!! )
「か~わいい~っ」
(やめろ、触るな! なでるな! もふもふするな! )
少女は環、犬――いや、狼は真神である。因みに、オオカミの古名は真神と言う。かつて日本では神の中の神、真の神とは大神たるオオカミのことを指していたのだ。それにしても、日本狼と言うことは絶滅を免れて一匹だけ生き延びて居たのだろうか? それも只の狼ではなく、狼男が。
「ね、真神さん? 背中に乗っていい? 」
(ダメ! )
この状態で言っても迫力が足らないのか、環はあっさりと真神に跨り、真神は真神でもう面倒くさくなったのか振り落としもせずに走り出す。
「うわ速いっ」
(――当たり前だ。もう面倒くさいから東京まで送り届けるぞ。家はどこだ? )
「秋葉原だよ――」
聞くが早いが夜の街を少女を乗せた狼が疾走を始めた。この速さなら本気で夜明け前には秋葉原へ着くだろう。
――新撰組隊士の中でずば抜けて高価な刀を所持していたのは沖田総司である。
今の価値で数千万円はする菊一文字を沖田総司がどうやって手に入れたのか、その来歴は一切不明である。それについては総司も一切語らなかったからだ。
ただ、総司が一緒に遊んであげていた近所の子どもたちの中には、「狐がくれたのさ。」などと嘯く言葉を確かに聞いた者もいた、とか言うことだ。
(了)
――旧暦2033年問題と言うものがある。
日本では、明治時代に廃止された旧暦を未だ私的に使っているのであるが、2033年、つまり今年に限ってその天保暦ルールが破綻してしまい、旧来の方法では暦が作れないのである。もちろん、いくつかの方法で解決は可能なのであるが、あくまで『私的』な暦であるため公的に暦が定まる訳でなく……結局は数種類の旧暦が並立して存在すると言う不思議な事態が発生してしまった。お陰で今年の『中秋の名月』は2回ある。公式なものではないにせよ、暦が定まらないとなれば、秩序だった時の流れに綻びが生じる。時間に綻びが生まれれば、そこに『魔』が沸く。あまつさえ今年は北極と南極で日食が起こり、その2回目の日食はこの綻びの時間――ふたつある中秋の中に入ってしまう。日食もまた 、古来 より妖物(アヤカシ)の出没する異形の時間である。
かくして、2033年の秋は様々な思惑の人間や人間以外の何かが入り乱れ、人知れない世界で大騒動が巻き起こる。
これは、そんな大騒動の始まりのお話。
2033年9月8日、つまりは、今年ひとつめの中秋の夕暮れ時のこと。まだ出て数時間ばかりの月は、京都のビル群の隙間からその赤みがかった姿をぼかりと覗かせている。昔に比べてビルは立ち並んだものの、『通り』に限って言えば京都の町並みはあまり変わらない。つまりは……曰くのある場所も、あまり変わらない。堀川通と一条通の交わる橋もそんな古くから『曰くあり』な場所のひとつで、『戻り橋』と書かれたコンクリート製の橋のたもとにふらっと小柄な人影が現れたのは、おあつらえ向きに昼と夜の隙間の時間――逢魔が時だった。本来であれば、人の顔すら判別できない薄暗闇の時間なのだが、昨今は街中であればLEDの灯りが至る所を照らし出して、こんな時間でも眩いくらいに青白く明るい。
「………(暑い)。」
身長は150センチ弱。背は低いけれど、雰囲気は男子高校生と言った出で恰好で、学ラン風の制服を襟までぴっちりボタンを留めて着て、当たり前だが暑そうに喘いでいる。肩にはポスターを入れるタイプの巨大な書類ケースを掛けて、と言うか身長が低すぎてどっちかと言えばj地面を引きずりそうな感じに背負って、ふらふらと橋の欄干に歩み寄ってもたれかかると、俯いていた顔を上げて何かを探すようにきょろきょろと辺りを見回した。
――性別は分からないが、どきっとするほどの美形だ。京都盆地特有の蒸し暑さに上気した頬も、時折その細い首筋を這う汗も、暑苦しさなんて微塵も感じさせずにむしろ魅力に変えてしまうほどの美貌が街の光りに浮かび上がって、その瞬間、気だるい夏の空気がそこだけ別世界のように変わってしまった。シンプルに短く切りそろえた黒髪の下で、ふてくされた猫みたいに不機嫌そうな目つきだけが玉にキズだが、真っ白でつるんとした肌も、シャープだけれど可愛らしい体つきも、天使のような美しさだった。
何かを探すような視線を周囲に送っているのは、人待ちをしいているのか、コンビニで冷たいものでも探しているのか……ちょっとしてすぐにがっくりと目線を下げた所を見ると後者だったようで、不機な目つきをより一層凶悪にして(暑っぅぃ……)と可愛らしい声で恨めしそうに呟いた。
「京は初めてかい? 」
「――ぅぁぅっ!? 」
急に耳元で声がして、と言うか思いっきり耳に息を吹きかけられて小柄な体がぴょんっと飛び上がった。
ふわりと甘い香り。
振り返るといつの間にか男がひとり、すぐ後ろでかがみこんで覗き込んでいる。声をかけたものの、相手が急に1メートル近くも飛び跳ねたから男も驚いて、慌ててごめんごめんと謝りながら小さな箱を差し出して来た。タバコかと思ったら昔ながらのシガレットチョコ。甘い香りの正体はこれだったらしい。
「……い、いらない。」
無茶苦茶警戒感と不快感を露わにした視線を軽くスルーして、男は一歩後ろに下がると陽気に笑いかけて来た。……無っ茶アヤシイ。そして、ちゃんと立つと意外と背が高い。身長は180センチ後半くらいで、割と引き締まった体つきをしている。耳や拳はキレイだけれど、踵に重心を乗せ切らない立ち方といい、優しいけれど油断のない視線といい、絶対武術の心得がありそうだ。服装も印象もパッと見とても若そうに見えるのに、日に焼けた褐色の肌は細かい無数の皺で覆われていて、短く刈り上げた真っ白な髪と相まって男を年齢を分からなくしている。悪い人ではない。でも、絶対にこの男はまともな一般人じゃない。
「俺に用があるのはキミだろ? 臭いで分かる。――真神だ。俺は、真神残月(まがみざんげつ)。俺を呼び出せるって事はそれなりのコネのあるヤツなんだろうけれど……と、…その顔、目つき悪すぎだけれど見覚えがあるな。」
そう言って真神はぶるっと体を震わせた。ぼそっと(秋葉原絶対防衛線の英雄? マジか!? )と驚いたように呟いた所をみると制服姿の高校生のことを知っていそうだったが、
「突然ご無理を言って申し訳ありません。ぼくは――」
「あ、……ああ、いいよ。……ええっと、キミはどうせ酒匂(さかわ)なんとかちゃんって言うんだろう? 酒匂家の人間だったら、真名を名乗らないのは知っているし、嘘の名前を聞くくらいなら聞かない方が俺はいい。」
真神はそう言って、わざとらしく唇に人差し指を当てて制すると、
「だから、俺は勝手にキミを天使ちゃんって呼ぶことにする。」
と続けた。
「嫌です! 」
勝手に命名された天使ちゃんが叫ぶのを、真神はさらっと無視した。
「――逆にひとつだけ質問していいかな? 」
「なんですか? 」
天使ちゃんの只でさえ悪い目つきが更に険悪になる。
「俺さ、しばらく東京行ってないんだけれどさ、京浜東北線って相変わらずいつも遅延してるの? 」
「………………遅れない京浜東北線は、京浜東北線じゃありません。」
どことなく呪詛の篭ったその声に、真神は納得したようである。うんうんと頷いてから、真神は片手に抱えていた大きめの書類封筒を天使ちゃんに手渡した。
天使ちゃんは丁寧に礼を述べてからそれを大事そうに受け取り、そっと中身を確認する。黴臭い香りと、――それと見るものが見れば分かる妖気がすぅっと封筒の口から漂い出した。妖気は煙のように覗き込む天使ちゃんへと近づいて行ったが、途中でびくり、と動きを止めるとそのまま空気中へ溶けて消えていった。
「ご依頼のブツ――『今昔物語集 巻第二十七 本朝付霊鬼』の現存する最古の写本だ。お願いだからどうか丁寧に扱ってくれよ? 京大保管の国宝って代物だから、本当は勝手に持ち出しただけでも俺の首が飛ぶんだ。」
おどけた口調の言葉に、
……こくん。
天使ちゃんが神妙に頷いたのを見て、真神はちょっとだけその素直さに不安を抱いたようである。小声で、
「ちなみに天使ちゃん、戦闘経験はある? 」と尋ねた。
天使ちゃんは一瞬、まるで少女みたいに不安そうな目でふるふると首を振りそうになったが、はっとしてすぐ不機嫌そうな目つきに戻ると、
「ない、……です。」
そう言って射るような視線で真神を見てから、ふいっと視線を逸らして地面を見つめた。
頬から首筋にかけての肌の色が青白いくらいに真っ白で、誰の目にも天使ちゃんがかなり緊張しているのが分かる。
「じゃ、止めよう。」
真神は天使ちゃんの手から封筒を取り上げようとしたが、天使ちゃんはすばやくその手を避けると、封筒をぎゅっと抱きしめた。
「だめ、です。――お願い、します。続けて……ください。…………こ、このまま帰ったらぼくは親に叱られるんです。」
そう言って天使ちゃんは真神を見つめた。
懇願するような瞳はうっすらと涙を浮かべていて、さっきまでの凶悪なまでの不機嫌さは跡形もない。
(うわ、自分で命名しておいてなんだけど、こうして見るとマジで天使だなこいつの外見……。)
思わず見とれてしまって、それに気付いて慌てて咳払いをすると、残月は少し声を落として聞きにくそうに訪ねた。
「………………親ってさぁ……もしかして、真名火か? 酒匂真名火(さかわまなか)――? 」
こくこくこく。
天使ちゃんが激しく頷くのを見て、
「マジかーーー!? 」
真神が叫んだ。本気で動揺している。
「うわっ、あの剣術バカが子供を!? ありえない……マジか? 」
「えと、……母を知っているのですか? 」
「知ってるも何も超ご存知だよ。俺が知ってるのは2012年までのあいつだけれど……あいつの叱るは、イコール殺すってことだよな? 」
こくん。
素直に頷く天使ちゃんを見て真神はしばらく考えてから、
「じゃ、まぁ、しょうがないか。」
そう言った。
とたんに天使ちゃんの表情がぱぁっと明るくなる。と、ついでに目つきの悪さも戻った。もしかすると機嫌が悪いのではなくて、単に目が悪いのかも知れない。
「この本の中に棲んでいる狐に用があるんだよな? 」
「はい。」
「依頼内容だけじゃどの狐なのか見当はつかないが、この本に出てくるもののけは全部ヤバい奴だぞ? 」
「覚悟の上です。……お願いします。」
「うん。……じゃ……まぁ、俺予測でたぶん大人しそうなヤツから始めるか。」
真神はそう言うと、ぱぱんと両手を打ち鳴らし、
『狐、變女形値幡磨安高語第卅八(狐、女の形に変じて播磨安高にあひし語第38)』
朗々と何かのタイトルを暗唱した。
とたんに、ばさり、と天使ちゃんが手にした封筒から酷く古い書物が飛び出すと勝手に開き、ばらばらとページが繰られて丁度真神が読み上げた箇所を開いて天使ちゃんの手の上に落ちた。
真神の声に反応するように、ぽうと微かに文字たちが輝き出す。
「………………。」
漢字だらけのそのページを目にして天使ちゃんが明らかに動揺しているのを見て、
「あー、読めない、か。……んじゃあ、俺が超適っ当に現代風に訳して読んで、やっからストーリーはそっちで理解しろや。」
真神はそう言って、じわじわと夕闇が落ち始めた空に向かっていい声で語り始めた。
ちょいとばかりむかしむかしのある日の事だ。とある若い将校さんが、部下も連れずに深夜、家路を急いでいた。まだ若いが、男っぷり良い美丈夫で、腰には小振りの刀を帯びただけの軽装で、月明かりだけを頼りにライトも点けずに歩いて行く。さて、男が宴の松原を通りがかった時に、ふと前を見ると制服姿の女学生が歩いている。
都の中心と言っていい場所に、ぼかりと広大な森がある。それ自体はこの国で珍しい事でないにしても、さて、夜更けにこんな寂しい小道を若い娘が歩いているのはどう言う事だろうか?
青年将校――播磨安高と言った――は、怪訝そうに夜道を1人歩く女学生を凝視した。見れば、夜目にも鮮やかな薄紫の襟のセーラー服が煌々と照る月光(つきかげ)を艶々と反射し、白い布地の裏には黄緑色の下地が透けている。その容姿は、月明かりの中白々と華奢な肢体を浮かび上がらせ、何とも言い様もなく美しい。
真っ黒な長い髪が二筋、三筋、女学生の真っ白な首すじにうちかかって、ぞっとするほど美しいが、視線を這わせた先の顔立ちだけは、こんな夜更けに何故か目深に被った帽子に遮られ て見る 事ができない。
安高は女に興味を覚え、無粋な軍服姿である事も忘れてガチャガチャと装備の音も騒がしく女へと近寄って行った。
「おい……あ、いや。こんな夜更けにどの様な方がいったいどちらへおいでなのでしょうか? 」
恭しくお辞儀をして見せながら、安高の目は素早く女を値踏みし、邪な視線をちらちらと女の二の腕や太ももに遠慮なく這わせた。
女はと言うと、まんざらでもなさそうな素振りで、「人に呼ばれて西の京へ参ります。」
そう、涼やかな声で返事を返した。
「人に呼ばれて西の京へ参ります。」
……その涼やかな声がいっそう安高の興味を引いた。
(一体何処のご令嬢か? )
が、月光は眩いばかりに照らすのに、女学生は巧みに安高の視線から逃れる。ただ、ちらちらと真っ白な頬や首すじや鮮やかな口元が垣間見えて、いつしか安高は、少女に夢中になっていった。
そして、その可憐な素顔をひと目拝もうと、女学生の小柄な背丈に合わせてぐっと顔を近づけようとした時である。少女はまるで猫の様にするりと身体を躱すと、安高があっと気付いた時には、もう数メートルも先を軽やかに歩いていた。
……ただ、女学生はそれ以上安高を遠ざけず、やがてはまた、安高と一緒に並んで夜道を歩き始めた。
「こんな夜更けに女性の一人歩きは危険でしょう。この安高がお送りしましょう。」
「どちらまでお送り下さるの? 」
「人の所とはおっしゃらずに、是非安高の家においで下さいませんか? 」
「まぁ……あなたがどのような方とも存じませんのに。」
そう言って俯く仕草がどうにも可愛らしい。ついに抑えきれなくなって、安高は少女の手を掴むと小さな身体をぎゅっと抱き寄せた。少女はあっさりと安高の腕の中に収まり、瞳こそ見えないもののそっと安高を見上げている。
女学生の身体からふわりと良い香りが立ち昇って、安高は一瞬、くらくらと眩暈を覚えた。ふと前を見れば、話に夢中になって歩く内に市中へと入っていたらしく、お誂え向きに立派な門柱がふたりの傍にある。安高はその物陰に少女を連れ込むと、
「こちらへ……あなたにお話ししたい事があります。」
そう、少女の耳元に囁いた。女学生が嬉しそうに目深に被った帽子姿のままこちらを見上げている のを見て………………。
(!? なぜこれだけ近くで見上げているのに、この女の顔が見えない? )
ふと、安高の脳裏に疑問が過ぎった。
……そう思ってみると心なしか、女学生の手が力を帯びて安高を掴んでいる様である。そう言えば、この辺りにはたちの悪いきつねが棲むと聞いた事が、と思い当たるや否や、安高は軍人らしい身のこなしで女を突き話すと返す手で女の髪を掴み、
ぞらり
帯びた刀を抜き放ち女の首すじにぴたりとあてた。
「……おい。着物を脱げ。」
冷たい言葉でそう言うと、細い喉元に押し付けた刃に力を込めた。女の白い首に銀色の刃先が皮膚を食い破りそうにめり込み、女は驚きのあまり声さえ失ってがたがたと震えている。
と。
しゃあああああっ
澄んだ水音が迸ったかと思うと、安高が嗅いだ事もない酷い悪臭が立ち昇り、
こんこ んっ
余りの臭さ に安高が力を緩めたその瞬間。女の姿はたちまちきつねの形に変じ、物凄い速度で大通りを逃げ去って行った。
「……クソっ」
残された安高のズボンにはきつねの尿がべったりと付き、その臭いはどんなに風呂に浸かっても7日は取れる事が無かったと言う。
それから、怒り狂った播磨安高が随分長い間あちらこちらときつねを探し回ったが、もう2度と安高の前に現れることは無かったと言う………………
「……これも安高に思慮と胆力があったからこそ、きつねに、……えーっと、きつねに……、」
もう間もなく話が終わるだろうと思われた、その時。真神はそこまで妖しげな訳を語ると、急に言葉を詰まらせた。どころか、小さく、あ、しまったと呟いている。
「ちょっ!? ……ど、どうしたの? 真神さん!? 」
真神は、ちょっと迷って、
「……きつねに(ピー)される事が無かったのである、と、人々はそう語り伝えたと言うことだ。――天使ちゃんすまんっ。最弱クラスを呼ぶはずが、最強クラスを呼んじゃったかも……」
途中に放送禁止用語みたいな擬音を入れたのも気になったが、聞き捨てならない台詞の途中で真神の声は急に途切れた。
――瞬間。
明るい京都の街並みは消え果て、辺りは突如闇に包まれた。
……いや、包まれたのではない。
ここはきっと最初からずっと暗い、そもそも光など届かない場所なのだろう。
一瞬前まで目の前に居たはずの真神の気配は消え去り、代わりに別の何かが目の前に立っている。
「ま、真神さん……? ちょ、……ちょっとこれは、流石にヤバ過ぎ……ですよ? 」
引き攣った声で天使ちゃんが抗議をしても、もはや真神はそこにはいない。
代わりに、不気味な女の笑い声が闇の中に響く。
「くくくくく。――あらぁ、美味しそうな子だこと。」
ぞぉっとするような冷たい声。
真っ暗闇で何も見えないはずなのに、天使ちゃんの脳裏には何故かさっき聞いた話に出てきた女学生の姿が浮かぶ。
いや……話の姿とは微妙に違う。
おそろしく古風な服。蠟細工のように、死人のように真っ白な肌。長い髪の毛までが真っ白で、風もないのにゆらゆらとゆらめいていた。
女学生の体は幽鬼のように空中に浮かび、その周辺にはびっしりと夥しい数の狐火が、あかあかと、でも何かを照らし出す訳でもなく飛び交っている。
「美味しそうだけど……貴方はどっちなのかしらね? 」
ふわふわと女学生が近づいて来て、思わず後ずさった背中に何か壁のようなものが当たった。手で探ると、大きな柱のようで、近くには更に別の柱もあるらしい。
――門柱?
まるでさっきの話の中に迷い込んでしまったかのようだった。
どんっ。
氷の塊のような冷気に圧迫されるようにして、天使ちゃんは冷たい石の柱に押し付けられた。
はぁはぁと呼吸音が聞こえ、冷たい息が体のあちこちに吹きかかる。
全身を嘗め回すみたいに視線が這うのが分かる。
――見られている。
「んんん? 分からないわね。」
焦れたような声がすぐ近くでして、制服の衣擦れの音が聞こえたかと思うと、生命あるものとは思えない凍てつくような指先がすぅっと天使ちゃんの唇を触った。
「貴方はどっち? 男――? 女――? 」
「……。」
冷たい指先が頬から首筋、うなじへとゆっくりと移動して、
バチッ
天使ちゃんの洋服に触れた瞬間、爆ぜるような音がしてぱっと火花が散った。
一瞬、さっきから脳裏に浮かんでいる姿そのままの、真っ白な長い髪の女学生の姿が闇の中に浮かび上がる。先ほど真神が読み上げた話に出てきた通りに、髪で目が隠れていて表情が分からない小柄な少女だった。
「忌々しい護符を身につけているのね……それなら――」
少女は天使ちゃんの右手を掴むとおそろしい力で捻り上げ、
「脱げ――その着ているものを全部。」
そう男の声で言った。
「……脱がせて、みたら? 」
喘ぐように天使ちゃんが呟くと、女学生は心底楽しそうに哂った。
「ふふふふふ……良いな、その威勢。強力な護符に守られている自信か? そう――ならば、名乗ろう。私は、武徳院。名高き武徳殿は松原の狐。」
(もののけが自ら名乗った? )
天使ちゃんの表情が蒼白に変わる。
想定外どころか、想像すらしていなかった事態だった。
名前を知られると言うことは、魔物にとって力を失うことに等しい。それなのに名乗ったと言うことは、本当の名前を言っていないか、……それとも双方の間に明確な力の差があることを物語っている。――しかも名乗ったその名前が武徳院とは。武徳殿の松原の狐とは。……武徳殿の松原は別名、宴の松原と言い、内裏のすぐ傍にある広大な空き地だった。そして、この場所で有名なのは実は狐ではなく「鬼」である。今昔物語集同じく27巻の第8話に、「於内裏松原鬼成人形噉女語第八(だいりのまつばらにしておにひとのかたちとなりておんなをくらうことだいはち)」があり、見知らぬ男に誑かされた女が惨殺死体で発見される話が残されている。「日本三代実録」によれば、この今昔物語集記載の事件は仁和三年(887年)八月十七日に実際に発生したものとされ、正史として扱われている。仮にこれらの書物の記述が正しいものだとすれば、目の前のこの少女の正体は、狐ではなく『鬼』と言うことになるが……もし本当に鬼であるのならば、狐などと嘘は吐けないはずである。
「どうした? ……お主は名乗らぬか? 」
くすくすくすくす。
女学生は嘲笑う。
天使ちゃんはじっと考え込んだ後、
「――環。ぼくの名は沖田環(おきたたまき)だ。」
きっぱりと名乗った。
とたんに、ばさりばさりと何かを切り裂く音が響き、天使ちゃん――沖田環の着ていた衣服がぼろぼろと裂け始める。
「ホホ……よくぞ名乗った。お蔭でその厄介な護符どもを切り捨ててやったぞ。」
「構わないよ――」
環はそう叫ぶと、勢いよく学生服の上着を脱ぎ捨てた。脱ぎ捨てなくとも全身の衣服が裂け崩れていたから、ほぼ一糸纏わぬ環の裸体が闇夜に浮かび上がる。闇から環の体を浮かび上がらせたのは、脱ぎ捨てた上着の裏地に並ぶ無数の青い光だった。ぽうぽうと青い蛍火のように蠢くそれらは、良く見ると何やら文字 の書かれ た小さな紙切れで、ふわふわ環を護るようにして空中を漂った後、すっと天空の一点を目指して駆け上った。
と。
突然バリバリと雷鳴が響き、空を一本の稲妻が切り裂いた。
途端に、ばすんと闇の一角に丸く穴が開き、そこに炯炯と光を落とす月が現れた。
「――ぼくも、お前の結界を破いたから。」
視線を伏せたまま環は呟いた。雷に驚いた瞬間を逃さず、武徳院の指を振り払って数メートルも先に環は立っている。手にはいつの間にか肩に背負ったポスター入れの中身――細身の日本刀が抜き身の状態で握られていた。
武徳院は、一瞬だけぽかんと驚いた風を見せたが、長い髪の奥から環の美しい裸体をまじまじと見つめ、
「ホホホ……おぬしは女か。残念じゃったの。男ならば死なずに済んだものを……女には用は無いのじゃ。どれ、喰うてやろう。」
べろりと赤い舌で唇を舐めた。素人丸出しの構えの環の日本刀には目もくれない。
「――お、お前だって、男じゃないか……。」
環はそう言うと、武徳院の喉元を指さした。
示された先には、確かに立派な喉仏がある。
「そうじゃ。私は確かに男じゃが、男にしか興味がないのじゃ。」
そう言って唇を笑みの形に歪めつつ、すたすたと近寄ってくる武徳院へ向かって、
「……。」
環は小さく何かを呟き、すっと構えを改めた。
「む――? 」
武徳院の歩みが止まる。
歩みを止めたまま、じっと環の様子を伺っているようである。
もう口元に笑みはない。どころか、何かに怖気ずくかのように、半歩足を引いてさえいる。恐るべき妖物であるはずの武徳院にそうさせてしまう程に、空気ががらりと変わってしまっていた。
「お主――替わりおった、な? 」
環は答えない。
だが外見こそ環のままだが、その中身はまるで別人に入れ替わってしまったかのようだった。
変則的な構え――身体を少し猫背気味に、やや背を丸めた姿勢で平晴眼に構え、その切っ先は斜め下からびたりと相手の喉元へと向けられている。堂々たるその姿は、解き放たれる寸前の無数の矢のようだった。おそらく一瞬でも隙を見せれば、たちまち全身に刃を突き立てられてしまうであろうおそろしい構え。武徳院はそこまで見切ると、もう自分が進むことも退くことさえも許されない相手の間合いに踏み込んでしまったことを悟った。
「――それは天然理心流……知っておるぞ。良く……良く知っておる。私はその構えから数多の武人を切り倒した素晴らしき男を知っている………………ああ……ああ、なんと懐かしい。」
その構えでさえおそろしいのに、環の全身からは目に見えるほどの殺気が吹き上がり始めていた。
めりめりと空気が音を立てそうに軋み、武徳院は視界がぐらぐらと歪みそうになるのを感じた。
「この気組みは……忘れようがないな。この気に切り裂かれるのもまた私の本望であるが……まずは詫びよう。沖田環と言ったか……女と申して悪かった。お主は、男だ。」
武徳院は頬を紅潮させてそう言うと、その場にすっと座り込んだ。そのまま長い間環へ向かって頭を垂れ、それから長い髪を掻き分けて薄紫色の優しげな瞳を見せると、じっと環を――いや、環の中に宿る男の魂を見つめた。
「――お帰りなされたか、藤原春政どの。私の心底惚れ申した、男の中の男よ。」
武徳院は幕末最強剣士――沖田総司藤原房良(おきたそうじふじわらのかねよし)の名を幼名で呼ぶと、
「ご無礼仕った。お前様に切られるのならば本望――さあこの身、お好きにされい。」
そう言って嬉しそうに笑いかけた。
「……。」
その様子を見て、環の中の男もふっと笑ったようである。無言のままさっと剣を引くと、惚れ惚れするような見事な仕種で刀を鞘に納めた。と同時に、周囲を圧していた殺気も迫力も消え失せたようである。座る武徳院の前には、いつの間にかまた環に戻った素肌の小娘がぽつんと立っていた。
「武徳院様、武徳殿の狐様。ぼくはあなたを斬りに来たのではなく、探しに来たのです。」
「――? 」
「沖田総司様に『菊一文字』をお授け下さったのは、あなた様ですね? 」
「――如何にも左様……だがそれは、春政どのに私の命を救って頂いた礼としてお渡ししたもの。授けたなどと大層なものではない。」
「……沖田総司様は21年前の大日食の最中(さなか)、眠られていた今戸神社の地でサルタヒコ型の神として神成(かみな)り給いました。その際、大いに荒ぶる神として成り給われました故、我が母、酒匂真名火の手により秋葉原の地に鎮座せられ、今は同地を守る神として祭り奉られております。」
環は神妙な面持ちで武徳院へ口上を始めた。
「沖田総司様が母を座と成し給いて生まれましたのが、このぼくでございます。そして時定まらぬ今年、秋葉原と呼ばれるかの地では時定まらぬ大変動の波を受け、異形の鬼神(もののけ)どもが現出致し動乱を巻き起こしてございます。故に万が一この菊一文字を損なうことがあってはならぬと、この刀を元の持ち主――京都に今も棲むと伝わる狐様へお返しするようにと、申し付かって参りました次第でございます。」
環はそう言って、手にした刀を恭しく武徳院へ渡そうとした。
「いらぬ。」
「……そこを是非に。」
「いらぬ。それはもう春政どののものじゃ……それより、のう? 」
「はい? 」
「まどろっこしいことを申すな。もとより私はすべてを春政どのに捧げておるのじゃ……」
「は、はあ。」
「厄介ごとが起きてるのじゃろう? ならばこう言えば良い。手伝え、と。さ、私を秋葉原とやらに連れて行くのじゃ。」
言ったかと思うと武徳院はなんだか嬉しそうに、くるくると回ったかと思うとぱっと大きな狐火へと姿を変え、
「え!? ええっ!? ちょ、ちょっと待って……○×△□ぐにゃぁ……」
多数の狐火を引き連れて環の口から身体の中へ入り込んでしまった。
「……お帰り――って、おわっ、お前なんで裸なんだよっ」
環の姿が消えていたのはほんの数分。
なんだかんだで優しい男なのだろう。真神はその間ずっとそわそわきょろきょろしていたが、大気の中に『帰還の兆候』のニオイが満ち始めたのを嗅ぎ取ると素直に喜べばいいものを、急に態度を無関心でどうでもよさそうなものに改めた。本当は心の中でしっぽをぱたぱた振ってるくらい嬉しい癖に、この男はこの男で感情表現が屈折してると言うか、相当下手らしい。
「――た、ただいまっ」
環は環で急に明るいLEDきらめく世界へ戻されたために目の調節が追いつかずしばらくぼぅっとした様子だったが、視界が戻って自分がポスターケースを肩から提げている以外は素っ裸で京都の街中に突っ立っていることに気がつくと、裸を隠すどころかいきなり真神に抱きついた。
「バカ……まっ、待てっ抱きつくなっ! 」
「……武道の心得その13、危機あらば敵の懐に飛び込むべし、ですっ」
「いや……それは間違ってないが……お願いだから離れてくれっ! こんな街中でおっさんが裸の美少女に抱きつかれていたら、絶対警察に捕まる! 」
「嫌です。――離れたら見えちゃう! 」
そう言って環はよけい真神にぎゅうっと抱きついた。
「見ないから! いや、見たいけど絶対見ないから! 」
実は油断してたとは言え、真神が他人にあっさり抱きつかれることも、それを真神が振りほどけないことも、達人のレベルをとうに突き抜けちゃっている真神にとってはあり得ないことだったのだが、そのあり得ないことが起こっていることで真神は珍しく取り乱した。――かつて2012年の大日食の際、東京都清掃局長として多数の魔法化部隊を率い、出現する魑魅魍魎どもを薙ぎ払って首都を守った男が、たったひとりの少女に抱きつかれて取り乱している様は、かつての部下が見たらどう思うだろうか? 因みにかつての部下の筆頭格は酒匂真名火と言う名の剣術使いである。
「あーってもうっっ」
叫ぶと真神は、環の首根っこをねこみたいに掴んで無理やり引き剥がすと、
「着ろ。」
と言って、自分の服をぽいぽい脱ぎ捨てては環に被せ、
「こっち見るなよっ」
と叫んだかと思うと、空にかかるまんまるい月を見上げ、『吠えた』。
……10分後。
京都の路地を少女と大型の犬が歩いている。
(――いいか? 首輪とリードつけてるっぽく振舞えよ。)
驚いたことに犬はぼそぼそと少女に向かって話しかけている。小さな声なのでよほど近づかないと聞こえはしないが、見る人が見ればその犬の外見がおかしいとすぐに気がついただろう。妙に大きいし、しっぽがふさふさなのだ。
くすくすくす。
だぶだぶの男ものの服を着た少女は、その犬を見て可笑しそうに笑っている。
(こっち見んな! )
「だって~、本当にわんこだったんだもん。」
(わんこ違う! 狼だ。日本狼!! )
「か~わいい~っ」
(やめろ、触るな! なでるな! もふもふするな! )
少女は環、犬――いや、狼は真神である。因みに、オオカミの古名は真神と言う。かつて日本では神の中の神、真の神とは大神たるオオカミのことを指していたのだ。それにしても、日本狼と言うことは絶滅を免れて一匹だけ生き延びて居たのだろうか? それも只の狼ではなく、狼男が。
「ね、真神さん? 背中に乗っていい? 」
(ダメ! )
この状態で言っても迫力が足らないのか、環はあっさりと真神に跨り、真神は真神でもう面倒くさくなったのか振り落としもせずに走り出す。
「うわ速いっ」
(――当たり前だ。もう面倒くさいから東京まで送り届けるぞ。家はどこだ? )
「秋葉原だよ――」
聞くが早いが夜の街を少女を乗せた狼が疾走を始めた。この速さなら本気で夜明け前には秋葉原へ着くだろう。
――新撰組隊士の中でずば抜けて高価な刀を所持していたのは沖田総司である。
今の価値で数千万円はする菊一文字を沖田総司がどうやって手に入れたのか、その来歴は一切不明である。それについては総司も一切語らなかったからだ。
ただ、総司が一緒に遊んであげていた近所の子どもたちの中には、「狐がくれたのさ。」などと嘯く言葉を確かに聞いた者もいた、とか言うことだ。
(了)