サム・クック・アット・ザ・コパ (RCA-6276) 
     (この時は裏表紙に解説文が書かれオリジナルとは異なっていた↑)

今回も引き続きコパ盤のライナーの紹介。

前回の鈴木さんのライナー文を以前から読まれていた方も多かったかもしれないが、今回の福田一郎さんのライナーを読まれたことがある方はどのくらいおられるのだろうか?
僕がこのライナーを読ませて頂いたとき、福田さんは現代からタイム・スリップして50年前に戻り、そこでこのライナーを書かれたんではないかと思うほど、サム・クックのことを詳しく記載されていて驚いた。

ひとつだけ「ユー・センド・ミー」の紹介で、L.C.クックの作詞作曲となっている点が、実際はサム本人だったと訂正するくらいで、後の文は本当に目を見張ることばかり。

これは75年に再発されたものだが、65年に初めてコパの国内盤がリリースされた時の解説文に、あとがきをそえられた内容になっている。

では、前置きはこれくらいにして、そのライナー文を。。。


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サム・クック・アット・ザ・コパ ~ニューヨーク、コパカバーナに於ける実況録音

1964年の末、アメリカのポピュラー・ミュージック界は、1人の若い、才能豊かなポピュラー・シンガーを失いました。12月11日未明、ロス・アンゼルス郊外のあるモーテルの女管理人にピストルで射殺されたポピュラー・シンガー、サム・クックです。
サム・クックの射殺事件の真相について、週刊誌あたりにはスキャンダルの結果とか、いろいろとかんばしくない噂も流れていたようです。
海のむこうの事件のことですから、真相というものは、とうてい正確にはキャッチできません。しかし、数多くのファンが、亡くなったポピュラー・シンガーに示した態度から判断しますと、サムの行動は、噂されるほどスキャンダルじみたものではなかった、ということがいえるようです。
サムの葬儀は、12月17日、シカゴのサウス。・サイドにあるパブティスト教会で行われ、1万5千人もの人々が参列しました。教会のスペースの関係で、3分の1しか教会のなかには入れなかったそうです。しかし、ほとんどの人が、摂氏0度の寒空の下に立ちつくし、若くして亡くなったサム・クックの冥福を祈りつづけた。と外誌は報道しています。
WVON放送局は、この葬儀の模様を中継し、ロドニー・ジョーンズは、"音楽がこの地球上に存続するかぎり、サム・クックは生き続けるであろう。"このようにマイクを通じてサム・クックをたたえたということです。
もしも、あなたがサム・クックの熱烈なファンであったとしましたら、ロドニー・ジョーンズの言葉を引用するまでもなく、サム・クックのすばらしさというものは、とっくにご存知のところでしょう。
しかし、率直に申し上げて、サムの人気、実力というものは、こちらでは不当に低く評価されています。いえ、それどころか、サムの代表的ヒット・ソングさえ知られていない、といってもよい有様なんですから、ここで、サム・クックは、ハリー・ベラフォンテと肩をならべるすばらしいポピュラー・シンガー、すぐれたエンターテイナーで、RCAビクター・レコードにとっては、エルヴィス・プレスリー、ハリー・ベラフォンテにつづく最大のベスト・セラー・アーティストであった、こう申し上げたところで、多くの方には信じて頂けないかもしれません。
しかし、サム・クックがアメリカのポピュラー・ミュージック界を代表するすぐれたアーティストの1人であった、ということは疑いもない事実なのです。64年に来日したザ・プラターズの人気者、バスのハーバート・リードは、サンケイ・ホールの楽屋で、サムの死をいたむように次のように語ってくれました。
「彼は本当に偉大だった。ベラフォンテ以上だったかもしれない。しばらく前、ニューヨークのコーパに出演したときは、大変な話題となったものだ。そのころ、タイムズ・スクエアにサムの大きなポートレートの看板が上がっていた。ベラフォンテのようなスポーツ・シャツ・スタイルで・・・・・・」

「コパカバーナのサム・クック」は、このときのコパカバーナ出演のステージを録音したものです。サムのナイト・クラブでのショウが、どれほど音楽的に充実した、楽しい見もの、聞きものであったか、ミュージック・スピークス・イットセルフという言葉がありますように、このアルバムをお聞きになれば分かって頂けるはず。その前に音楽評論家たちのステージ評を2、3ご紹介しておきます。
"サム・クックは、完全無欠、真実の人気スターである"(ヴァラエティ紙:ハーマン・ショーンフェルド)
"サム・クックは、アメリカ最高のポップ・シンガーの1人となるべき人・・・・・・"(ニューヨーク・ジャーナル・アメリカン紙:ニック・ラポール)

サム・クックは、デビュー当時から僕のお気に入りのポピュラー・シンガーの1人だったものですから、プロローグが遂々長くなってしまいました。大変申しわけありません。それでは早速、ニューヨーク最高級のナイト・クラブ、コパカバーナの豪華な客席へあなたをご案内して、サム・クックのすばらしいステージをお楽しみ頂きましょう。

「さて、皆さん、コパカバーナが誇りをもっておとどけするサム・クック」
何時もながらの名調子というところでしょうか、司会者の迫力十分のアナウンスに導かれて、サムの登場です。ハンド・マイクを左手に歌いはじめます。「自由が一番」The Best Things in Life Are Free。原曲は、1927年のミュージカル・プレイ・「グッド・ニュース」のためにリュー・ブラウン、バディ・デスルヴァが作詞、レイ・ヘンダーソンが作曲した地味な歌ですが、サムはショウのオープニング・ナンバーとして巧みに解釈、彼自身の歌として歌い上げます。「自由が一番」、で客席をわかせてから、テンポはメディアム・テンポにかわり、サムは、コーパいっぱのお客様に感謝の言葉を述べ、そのまま次の「ビル・ベイリー」Bill Baileyにうつります。何の抵抗感もなく、まったくスムースにおしゃべりから歌につなぐあたり、一流のエンターテイナーとしての資格十分というところです。この歌は、大変に古くから歌いつづけられているポピュラーなメロディーですが、サムは、新しい歌詞をつけて、自分自身のスタイルに消化していきます。
レイジーなブルースらしい演奏にかわって「今度はちょっとした人生哲学について、それは・・・」
そう話しかけて、ブルース「落ちぶれはてて」 Nobody Knows You When You're Down and Out に入ります。大金持だったときは、友達も大勢集まって、気まま一杯に楽しく暮らしたが、落ちぶれて貧乏したときは、誰もかまってくれないものだ、という人生哲学のお話。"ミスター・ソウル"と呼ばれるサムにぴったりの歌といったところで、感動的な拍手が客席からおこります。
再び、メディアム・テンポにかわってからサムは気軽に話しかけます。
「今晩は大変に楽しいです。どうぞ皆さんも、お気軽に楽しんで頂きたいものです。今度はナイス、ベリー・ナイスな物語、私どもの好きな歌です・・・・・・」
ここで歌いだすのは、「フランキーとジョニー」の物語です。古くから歌いつがれているフォーク・ソングといったものですが、この歌でも、サムは、自分で新しい歌詞をつけています。なお、この歌は、1963年夏「新フランキーとジョニー」として紹介され、かなりのヒットとなりました。
つづいてサムは、メドレーを歌いますとアナウンスして、「トライ・ア・リトル・テンダネス」 Try a Little Tenderness 、「センチメンタル・リーズン」(I Love You) For Sentimental Reasons、「ユー・センド・ミー」 You Send Me の3曲を歌いつなぎます。これらの歌については、どなたもご存知のことと思いますが、「ユー・センド・ミー」についてちょっと御紹介しておきましょう。
「ユー・センド・ミー」は、サムの大ヒットの一つ、というよりは、正確には彼の最初のヒット曲であり、最初にして最後の全米ナンバー・ワン・ヒットでもありました。1957年11月30日付けビルボード誌"ホット100"でエルヴィス・プレスリーの「ジェイルハウス・ロック」に取って替わって1位に上がり、3週間トップを続け、200万枚近いシングルを売りました。そしてこの大ヒット曲は、サム自身の作詞、作曲したものとなっていますが、実はサムの弟で、優秀な音楽家でもあるL.C.クックが書いたものだということです。そしてL.C.は、兄の跡をついで、レコード・シンガーとしてデビューすることになったと伝えられています。
メドレーが終わりますと、リズム・セクションはアクセントの利いたリズムをつくりだし、これにハンド・クラップ(手拍子)が加わります。そしてどんな歌がでてくるか、あなたがお考えになっているうちに、意外な歌が飛び出してきます。「天使のハンマー」 If I Had a Hammer
です。世界中のフォーク・シンガーたちが大切なレパートリーの一つとして必ず歌っているピート・シーガーの作品を、サムは、彼の大ヒット「チェイン・ギャング」のスタイルをも取入れて、お客様と一緒に歌う、楽しいショウ・ナンバーとして作り上げています。ここでのサムのユーモアたっぷりにのおしゃべり、リードぶりは見事なもの。この歌1曲の歌いぶりだけで、サム・クックは、アメリカ最高のエンターテイナーの1人である、そう断言しても言い過ぎではないと思います。
かわってスロー・バラードで「恋した時に」 When I Fall in Love。エドワード・ヘイマンが作詞、ビクター・ヤングが作曲したラブ・バラードで、ほとんどのポピュラー・シンガーが歌っています。サムの解釈ぶりは、黒人シンガーらしい、独特のねばりのある歌い方で、とくに後半での盛り上がりは感動的でさえあります。
「恋した時に」のエンディングから急転直下、明るいツイスト・ナンバーにかわって、「ツイストで踊りあかそう」 Twistin the Night Away。サムの自作で、彼の代表的ヒットの一つ。1962年春にヒットしました。サムはお客様のハンド・クラップの協力を得て、歌い、踊りまくります。
ここでまた、曲のテンポ、ムードが一転します。「エーメン、エーメン・・・・・・」という歌いだしから「ジス・リトル・ライト」This Little Light of Mine に入ります。この歌のメロディーは、黒人たちの間で歌いつづけられてきたもので、映画「野のユリ」の中に出てくる「エーメン」、つまりジ・インプレッションズのヒットでしられる。「エーメン」とおなじメロディーです。サムは、ここでも自分で新しい歌詞をつけて歌っていますが、敬虔なキリスト教信者だったサム・クックの一面がよくあらわれているといえます。
サム・クックのショウ、いよいよフィナーレに近づいてきました。再び、モダン・フォーク・ソング・トリオ、ピーター・ポール・アンド・マリーのヒットの一つで、ユニークなフォーク・ソングの作者としてしられるボブ・ディランの書いた傑作「風に吹かれて」Blowin' in The Wind です。戦争否定の歌で、9つの質問からでき上がっており、その答えはすべて風がしっているという内容の歌詞をもっています。
そして「行かなくちゃ、行きたくないけれど、行かなくちゃ」と、サムは、客席にむかって語りかけながら、ステージをさがってゆきます。コパ一杯につめかけたお客様から、すさまじい拍手、声援がわき起こります。
と、一瞬、静かになって、サムが再びステージに姿を見せ、アンコール・ナンバーを歌いだします。
「・・・・・・パティ・ページがしばらく前に歌った歌ですが、これがその歌とは彼女には分からないと思います・・・・・・」
400万枚以上も売ったというパティ・ページの大ヒット「テネシー・ワルツ」Tennessee Waltz です。1964年夏、サムは、自分のスタイルで、このウェスタン調のワルツを料理して、リバイバル・ヒットさせました。彼の歌詞、解釈ぶりを味わっていただければ、まったくサム・クックの「テネシー・ワルツ」となっているところが理解できるはず。コーパの耳の肥えたお客様が、力一杯の拍手、声をかぎりの声援を、ステージのサムに送って、たたえているのも当然というところでしょう。

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このライブ・アルバムのための解説は、サム・クック急死の1ヶ月ほど後の、1965年に書いた。それからちょうど10年経って、今度の再発売になり、リライトを強要されたわけだが、彼のヒット曲の年代を明確にした程度で、目立った加筆をしていない。
10年ひと昔というが、5年がひと昔にも相当するポピュラー・ミュージック界の動きからすると、ふた昔も前に書いた解説は、どう割引いて評価したところで、時代の感覚がずれていて、陳腐に過ぎる。出来ることなら、誰かほかの評論家の方に新しく書いて承いて、拙文のほうは抹消して裕しかったのだが、レコード会社の都合で、そうもゆかなかったらしい。それだからといって、こちらにも新しく書きおろすだけの意志も、用意も無かったので、ほとんど元のまま、に近い解説をのせ、繰り言にも似た駄文を付け加えて、許して承くことにした。
それにしても、いま、改めて聞き直してみても、このライブ・アルバムのサム・クックの出来ばえは実にすばらしい。編曲やオーケストラの演奏に関していえば、古めかしさを否定できないでもないが、サム・クックの歌に関するかぎり、10年ふた昔の古めかしさといったものは、全く感じられない。
いまごろになって、このアルバムをはじめサムの旧アルバムが再発売されるというのはサム・クックの評価がようやく高まってきたせいなのかも知れないが、簡単に喜んでいいのかどうか、ぼくにはどうもよく分からない。ニューヨークきってのナイトクラブで、コパの愛称で親しまれたコパカバーナは、数年前につぶれてしまい、いまはない。サム・クックをはじめ何人かのトップ・アーティストの残したコーパでのライブ・アルバムと共に、60丁目10番にあった、このナイト・クラブは、ファンの記憶の中に生き続けるに相違いない。


1975年 2月 福田一郎
                 (LPアットザコパ / 福田一郎氏ライナーより引用)

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サム・クックが亡くなった64年の翌年の65年に初めてこのライナーが書かれた。
翌年とはいえ、亡くなってからたった一か月後の執筆だ。
しかも国内の出来事ではなく、海外のことをここまで情報収集されていたことへの尽力に感銘をうけた。
いや、労力というより福田さん自身ほんとうにサム・クックが好きで、亡くなったことのショックが大きく、ありとあらゆる報道を拾い集めては真実を追求されていたに違いない。

そして何よりコパで歌われた曲の解説。
鈴木さんの解説ともども、読み返すたびにこのコパ盤をリピートしてしまう、そんな素敵な紹介文だったと思う。
改めてコパのライブがサムにとって、そして彼のファンにとっても重要で、なくてはならなかったライブだったと確信した。

あとがきに福田さんは10年ひと昔、いや5年でひと昔のポピュラー界にあって、自分の解説が時代の感覚がずれていて、陳腐に過ぎると書かれているが、決してそんなことはなく、50年経った今でもサムの歌声と同様に新鮮に感じることができた。


ほんとに素晴らしい「感性」を伝える宝のライナーを、ありがとうございました。


Sam Cooke Tennessee Waltz Live At The Copa 1964