『地には平和、人には親切』
ミヘーエフは言っていた。「他人の命を取るのは、いとたやすいことだが、自分の魂はどうだろう?」
百姓たちはみな管理人に労働を強いられ、骨まで吸い取られる日々を送っていた。
ミヘーエフは、復活祭に働けと言われたら行く、神様は誰の罪だかちゃんとご存知である、と言った。
この世に存在する不条理にどう対処すればいいのか。私は、ふだんから、不条理なことに遭遇するのをとても恐れて生活している。不条理なことは生活の日常にある。何かのとばっちりを受ける時もあれば難を免れるときもある。どちらになるかは偶然の産物だ。
少なくとも自分は、「何事も辛抱だよ、兄弟たち」のミヘーエフの言葉のように、不条理を辛抱してきたつもりだった。けれどこの小説を読んで、自分があたかも悲劇のヒーローで、ことさら不条理な状況に置かれていながらも諦めずに立ち向かう日々を送っているような錯覚をしていたことに気付いた。
よく考えたら周りの人もみんな同じように不条理を身にまといながら生きているのだ。そしてとばっちりを少しでも軽くできるように自分なりの予防線を張っている。時には軽微なとばっちりを自ら引き受けることで、のちに降りかかる重大な飛び火を免れようとする人もいる。
消えないろうそくが何なのか、今の私にはわからない。
おそらくろうそくは自分の心の中に宿るものなのだろうと思う。けれど、自分自身のろうそくを認識することは、果たしてできるのだろうか?私の場合、自分のろうそくは見えないけれど、他者の姿を見てろうそくを感じることはある。(他者のろうそくに惹かれるあまり自分を見失うことがしばしばある。)
自分のろうそくに気付く機会があるとすれば、一つ心当たりがあるのは「非日常」の出来事かも知れない。日常に埋もれていると知らず知らずに見失っているものが、非日常を通して呼び覚まされる、とてつもなく大切なもの。非日常に遭遇し、しばらく日常に戻れない状況にある人から、それを感じる。
そう思うと、自分にろうそくが灯る時というのは、とてもしんどい時かも知れない。払う代償は途方もないのかも知れない。人に愚痴をこぼしながらやり過ごしている日常の方がはるかにましなのかもしれない。
にもかかわらず、ただありのままの自分を包み込んでくれる他者を求める自分がいる。そんなものはこの世に存在しないことはうすうす分かっているのに。
おわり
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