おはようございますニコニコ
今日から新学期です。早いところは月曜から学校始まってますね。持ち物の最終チェックして、何とか無事送り出したいものです。私の気持ちの切り替えの方が追いつかなかったりします。滝汗

今日は、芥川龍之介の『河童』の読書感想文です。恥ずかしながら初めて芥川龍之介を読みました。難解でした。カエル


『恐怖という名の隣人』

 河童が恐怖におののいている。
 頭に皿ののった、とがったクチバシをもつ緑色の河童が、いつも心もとない表情で何かにビクついている。政治家も芸術家も裁判官も医者も。

 リストラで解雇されたら肉にされる何千という河童たち。異性にしつこく追い回される恐怖。裁かれる前に犯罪の名を言って聞かされただけで死に至るという過敏さ。自分がライバルに劣るのではないかと執拗に思い詰める不安の塊。河童の国の住人があらゆる恐怖に支配されている様子が印象的だ。

 駆け引きしたり、表現のさじ加減に悩んだり、付け入るチャンスを伺ったりという、「目には見えない曖昧なもの」は、河童にとって恐怖そのものだ。だから、河童の国は曖昧さが限りなく排除されている。河童の子は生まれてすぐに弁論できる。乳を吸い排泄する事しかできない人間の赤子の不完全さ、未完成さに向き合う発想はない。「それからどうなる?」「わからない。やってみたらじきにわかってくるよ」などという曖昧ごとは、河童には耐え難い。ゆえに、曖昧さを抹消する、あるいはとっとと自分を消し去ってしまう。

「怖い。」
この気持ちに支配されないためにか、河童の国にも「生命の樹」の教えがある。しかしたった一日で世界を作りあげ、「旺盛に生きよ」と性急さがみなぎる宗教は、曖昧さへの恐怖心を克服できていない。

 もちろん、人間の国にも恐怖ばかりゴロゴロ転がっている。けれども、人間は恐怖の存在を排除することはできない。あえて恐怖と共存する道を選んでいるのかも知れない。オリンピック選手も、闘う相手は自分の恐怖心だろう。恐怖が自滅に追い込む事もあるが、成長の原動力になっている側面もあるのだ。

 恐怖心に嘘をつけば、河童のように「死」がいとも簡単に訪れてくるのだろうか?旺盛に生きる事のすぐ裏側に死がスタンバイしている河童の国。だとすると、恐怖心から逃げ出したい気持ちに嘘をつけず精神病患者扱いされても生き続けている第二十三号は立派だと思う。

おわり


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