今日は確か亡くなった私のおばあちゃんの誕生日なので、おばあちゃんのことについて書きますね照れ


私のおばあちゃんは、大正15年の生まれで、

生きてたら今日で98祭(歳)なのですが、(確か今日だったはず!笑)


戦前、戦中、戦後の時代を生きた人でした。


19歳でおじいちゃんと結婚(おじいちゃんの最初の奥さんが亡くなって後妻に入った)


結婚するときに初めておじいちゃんと顔を合わせるという、お見合い即結婚、的な

今で言う

「交際0日婚」

の先駆けともいうべきか(いや昔はそういう時代だから)、そんな風に始まった結婚生活から、子供を4人産んで、自分で商店を始め、(おじいちゃんは学校の先生だったからお店はおばあちゃんが1人でやっていた)

子育てしながら店を経営するという、

今で言うバリキャリな上にもバリキャリな、

超スーパーウーマンワーママだったんですね。


しかもお店も一代ですごい繁盛させて、お酒の販売の免許も取って酒屋にしたり、

お祭りの屋台とかで出ている「わたあめ」の機械も導入して店先でわたあめを売ったり、

手作りの惣菜を作って売ったり、まるで小さなスーパーみたいな個人商店を営んでいました。


今、私がこの歳になって思うのは


「やっぱすごい」


です。


私はできないもん。


おばあちゃんは才女だったし


有能なビジネスウーマンだったんだなあって


改めてしみじみ思う。


読売巨人軍が大好きで、


中畑清の大ファンで笑


お店のラジオCMの話が来たとき


収録して最後のセリフで


「中畑さん頑張ってー💕」


と言っていたのを今でも私は良く覚えている😆


(てか、お店のラジオCMとかすごいな、今考えても😮)


「熨斗(のし)」に表書と名前を書くのを依頼されると


今ではプリンターで印刷だけど、


その当時はそんなの無いから


墨と筆でおばあちゃんが直に書いていた。


習字もできて、しかも達筆だった。


のし紙も大小いろんなサイズがたくさんあって

包装紙も大小様々色柄模様もたくさんあって


夏はくじ引きの景品を、様々用意して、紙を三角に折ったくじを大量に作って(私も手伝った)


家の中も店も賑やかだったな。


おばあちゃんは後ろが大きなカゴになった大きめの三輪車を運転して


自分で配達にも行っていた。


実に働き者で


それでありながら毎朝家族の朝ごはんも作ってくれていた。


毎食、仏壇にお供えしたご飯を下げて、頭の上に掲げて「いただきます」の動作というかあいさつ?をしてからご飯を食べていた。


朝から大量の天ぷらを作ってくれた時もあったし、

運動会や遠足の日は必ず卵焼きを焼いてくれた。


その卵焼きがまた超絶上手くて、味も美味くて(韻踏んでみた)GOE+5余裕で付くほどの出来栄えで、(しかも毎回失敗知らず)

叶うのならもう一度おばあちゃんの卵焼きが食べたいといつも思うくらいの、そんなすごい卵焼きも作れるスーパーおばあちゃん。


いやー、、、すごい。



恐れ入った。


頭が上がらない。


足を向けて寝られない。


私のおばあちゃん、マジすげぇ。


マジパネエ、半端ねえ。


大尊敬です。おばあちゃん。




すごいなぁ。



私はおばあちゃんの足元にも及ばないけど


でも、私の中には超スーパーバリキャリビジネスウーマンのおばあちゃんの血を受け継いでいる!


それが、その事実が

私に力をくれるような気がする。




改めて、おばあちゃん、ありがとう。


おばあちゃんの思い出を思い出して

思い出に想いを馳せて先祖供養とさせていただきます。