IQ


IQが20以上離れると、会話が成立しない。


俗説なのか、公式なのかは分からないが、実はこれが社会問題の縮図なのかも知れないと思うようにもなっている。


会話が成立しないから、人同士に分離が生じる。成立する人同士の「群れ」が自然とできる。その結果、群れ同士の対立や卑下という形で社会の「分断」が生まれる。


IQ、いわゆる知能指数は90〜100が中央値で、130を超えると天才の領域になると言われている。


また、有名大学の学生でも高くてもIQ120程度であり、必ずしも学歴と一致するわけではない。


IQは、主に空間や全体像の「認知力」が測定されている。決して勉強の出来不出来とは関係がない。


目に見えるものだけを認知するか、目には見えないが周辺情報から隠れたものまで認知できるか、更にその処理の正確さや速さが測定される。


そのためか、IQの高い人は、隠れた危険予測や状況把握を瞬時に処理できるので、自動車の運転が非常に上手だ。


一方で、いわゆる「発達障害」の人の中には、IQ130以上の高機能発達障害と呼ばれる方がいる。


これは、IQの高すぎる人が、定型発達と「異なる」という意味での「発達障害」に分類されてしまう、現在の「限界」なのだと思っている。


過去の偉人の人物プロフィールから、高機能発達障害の人々が「天才」であるという事がわかっている。


本当は、親を含めた「凡人」の理解が及ばないだけで、決して「障害」などではない。


2つの鏡を向かい合わせると、そこに「無限」が出来る。カメラとモニタでもいい。それをただ「面白い」「当たり前」と思うか、そこに次元を超えた宇宙の姿まで想像が及ぶかどうかの違いでもある。


自分の世界の中で、社会との自己完結型シミュレーションがほぼ完璧に出来てしまうので、空想と現実に境界がなく、独り言も多く、奇異とも感じるかも知れない。


ただ残念ながら、学歴偏重や社交性重視の風潮で、この人達を社会に生かす「知恵」が全くない。


しかも、親を含めて社会で「発達障害」という後ろ向きなレッテルを貼ってしまう。


これが、0か100かしか判断せず、私利私欲と何でもお金に換算する悪習と相まって、日本の社会から「イノベーション」を失わせている。


高性能エンジン、光ファイバ、βビデオ、フロッピー、LEDなどなど、日本人が発明したものは多岐に及ぶが、それを社会が活かせず、多くは逆輸入する滑稽が続いている。


企業の人事担当が「凡人」なのだから致し方ないが、学歴だけの人物評価が蔓延り、企業からも大学からも逸材が出ることはまず無い。


出る杭は打たれてしまう。出過ぎれば誰にも打てないが、そこまでは地道な根気と、妨害を押しのける勇気、何よりも「信念」が必要とされる。これは誰にも出来ることではない。


IQが高い人は、子供の頃から周囲と会話が成立せず、おそらく苦しんでいるだろう。どうしても社交的になれずに「引きこもり」になりやすくなる。


そんな人々を社会が救えなければ、本質を何一つ解決できない、薄っぺらい詐欺まがいの国会答弁的な営業文句だけがぐるぐると一人歩きする世の中になり、結局は我々に未来など来ない。


誰にとっても何一つ良いことなどない。


一方でIQが低すぎる人にも問題がある。低さは、知的障害とも呼ばれる。軽度の知的障害は、発達障害の中でも特に面倒な手間がかかり、ほとんどがお手上げになる。


何せ、周囲の状況や相手の立場に立った「想像」ができない。ましてや先々の予定など思考の範囲外である。


IQの低い人は、自動車の運転でも周囲に要らぬ「迷惑」をかける。


ウィンカを出さない、割り込みをする、パカパカブレーキを踏み車間を開けない。車線をちょこちょこ変える。しまいには、煽り運転や事故も起こす。


全ては全体把握が瞬時にできず、目の前だけの私利私欲の意識が高いと「社会の迷惑」となりやすい。


高齢者でアクセルとブレーキを踏み間違えるのも、実は認知機能の問題も絡んでいる。


高齢者の運転を問題視するのであれば、同じくらいIQの低い人の運転も問題視していい。


周囲への危険性はどちらも同じだ。


IQの高い人と低い人との間で会話が成立しないのは、低い人が「傲慢」な態度に出る事に要因があるそうだ。


低い人は、子供の頃からその「差」を認識しているので、自分だけが損をしているという誤認から、一種の「防衛」反応が傲慢な態度に結びつくのかも知れない。


認知力の低下した高齢者が傲慢になるのも近いメカニズムだと思われる。


カスハラやクレーマーもこの傲慢反応の一つだ。


リベラル発想では、個人の欲が最大化されるため、傲慢反応を正当化したり、過熱しやすく、周囲は当人から離れていく事になる。


益々、傲慢さは毒舌と連動して、力づくの脅迫や暴力を伴い、悪行に深化していく。


IQは、高すぎても、低すぎても、社会生活に支障があるようだ。


大衆は、不安や恐怖の原始的衝動から来る、理解が容易なIQの低い人と同じ行動を選ぶ。


ここに処方箋はない。ただそうした事実を「差別」と騒ぎ立てるのではなく、事実として冷静に対処しなければ、いつまでも営利悪人に隷属される。


結局は、我々の間に「競争」や「分断」を起こして、疑心暗鬼になるのが一番良くない。


大衆行動をIQの高い人達に合わせる事ができれば、人類は不毛な隷属社会から解放される。


彼らには「普遍性」を見極める能力が備わっている。


簡単ではなく、理解できない事も多いが、それでもそこに人類の未来の鍵がかかっている。


浅知恵の嘘や詭弁では、一時は上手くいったとしても、長続きはしない。普遍性こそ、最も重要視すべきことだと思っている。


何処かの政治政党のフレーズではないが、馬鹿みたいに盲目的に「前へ進む」のではなく、後ろ向きにじっくりと「見直す」事こそが、実は未来を変える原動力でもあり、最も効果的な近道でもある。


IQは高くても低くても生きる「道」はある。日本の民族哲学でもある、嘘をつく事なく、周囲に愛と感謝を忘れずに、毒を吐く事なく、正直に生きていれば、必ず道は開ける。


おそらく「普遍性」とはそういう事であろう。