大人の責務


物事を深く考える。


説教がましく、若いうちは是非ともした方がいいとよく言う反面、私の学生時代もそうだったが、普通はこれを嫌がる。


というか、想い憂う事が、ノロイとか暗いだとかカッコが悪いと思う心象の方が大きいのかも知れない。


昭和の時代には、長髪で物憂う作家や苦学生の姿が人気のあった頃もある。テレビドラマの影響もあったかも知れない。


子供が学校で授業を受けると「そういうものだ」で済ますようだ。そこに疑問など起こらないらしい。現在のみならず、我々もそうだったかも知れない。


我々が習ったものには、驚くほど間違えが多くある。明らかに、歴史と経済は間違えていた。今も残影が色濃くある。


哲学や倫理も、欧米のものばかりで、既に誰かが解釈済みのものに限られる。


日本人に役立つ内容のものは本質的に無い。戦前の日本人哲学者や文化人は何故か除外されてしまう。


理系の分野でも酷い食い散らかしだ。


地震予知は、予知そのものがそもそも不可能なのに、東海大地震が来ると言って脅かし、国家予算を大規模に使って静岡の御前崎に相当の設備をこしらえた。


それがいつの間にか、南海トラフとか話がすり替わっている。


その間に致命的な大地震が、北海道、岩手、宮城、福島、新潟、長野、兵庫、鳥取、熊本、そして奥能登に来ている。いずれの地区も「かすり」もしていない。


医学界も酷い有り様なのは、コロナ禍で思い知ったばかりだ。


今だに「学問」は、東大教授と書いて「鶴」の一言で決まるような、極めて不公平なものに偏っており、オマケに間違えている。


これは学問などではない。東大のマスターベーションと言えば良いだろうか。これが大学の授業や入試問題で平然と出題される。


そこで「順応」したものだけが「エリート」になる。


大人が誠実に「分からないものは分からない」と謙虚な姿勢があれば少しは違っていただろう。


大人に学ぶ姿勢が無ければ、子供が本気で学ぶ訳がない。


だから「学問」では三流でも、嘘がない「モノづくり」の世界では、虚実や試行錯誤を繰り返した現場の「職人」を多く輩出し、世界一となれた。ここには東大卒の人達などいなかった。


間違えは明治維新以降に発生したというのが私の持論だ。


明治維新は、それまでの武家政治を完全否定し、万世一系の天皇を頂点とする社会システムに転化させる為に、神武天皇を持ち出して神話物語で統制を図ろうとした。


戦前にはこれを更に強化して、八紘一宇の道義的世界征服まで妄想が暴走した。


上からの統制だけではなく、官僚、財界人、学者、マスコミ、そして学校教育が後押しした。現在の緊縮財政を否定しない人々と全く同じメンツだ。


周囲を卑下して、間違えを認められない人々に共通しているのが「エリート」思考だ。


経済的にも恵まれた環境下で生まれ育ち、完全な「脳」内だけの世界で妄想する。目の前にある現実の「違い」はあえて見ない。


脳内の理想的な世界、すなわち「妄想」に合わないものは、そもそも間違えであり、取るに足らない「くだらない」ものである。


エリート層の「妄想」こそが、この世の「完璧な社会像」であり、どうせ責任も取らず、文句ばかりで分かりもしない哀れな「下人」どもは黙って従っていればいい、となってしまう。


明治維新とは、西洋文化に対抗するため、単に武士階級を社会から排除するためだけのものでしかなく、武士の時代を全否定することで始まった。


武士の精神性が、その後の日本人の感性に与えた影響は計り知れない。おそらく武士の時代が無ければ、日本の歴史は二流以下となっていたであろうというのが司馬遼太郎さんの史観だ。


ただ武士には血統や世襲制がうるさく、問題もあった。能力があっても浮かばれない「庶民」が多くいた。


明治維新はこれらの人達を覚醒させた。


ところが、この人達には世相がなく、単にお金の前では、重石が外れたように過去をあっさりと捨て去った。


これが現代社会にも継承され、日本をことごとく破壊している「エリート」だ。


お陰様で、日本は「空っぽ」の国になり、お金儲け以外に生きる目的が無くなってしまった。


しかも「お金」は、自然物ではなく、欲得だけで生み出される人工的な「情報」であり、「仮想」でしかない。


それでもまだ戦後の成長期の「お金」が行き届いているうちは、物欲が問題を覆い隠していた。お金が無くなり出して、ようやく「空虚」が丸見えになった。


これでは若い人が将来を悲観し、壮年期に絶望だけが覆う世界と化してしまう。既にそうなっている。


我々には生活を安定させ将来を見越せる「生存費」と、次に繋げる実用的な哲学が必要だ。


財政拡大は非常に重要であるが、それだけでは空虚は埋まらない。


実用的な哲学とは、雰囲気に任せたものでもなく、過去の焼き直しでもなく、欧米の決めた仕掛けでもない。


神武天皇でもなく、西洋化でもなく、グローバル化でもなく、新自由主義でもない。ましてや、SDGsやLGBTでもない。


オリンピックでもなく、万博でもなく、IR誘致でもなく、インバウンド観光立国でもなく、ましてやデジタル化でもない。


その答えは、右か左か、0か100かの極端なものでもなく、魔法のような新しいイノベーションでもない。とは言え、過去を完全に断ち切ってリセットして降って生まれるわけではない。


全ては過去から続く現在の延長線上にしか未来は創造されない。


よく足元を見回せば、我々のいる大地と地域住民、そして家族がある。このローカルで小さな「まとまり」がヒントになると思っている。


小さくとも、それらが積み重なれば国家になる。かつての「藩」のイメージだ。


国債発行も国から地方に移譲して、地方債を主軸にしてもいい。外交と軍事以外は地方の政治を強化させ、その積み重ねが国政でもいいのではないだろうか。


私にもまだ明確な答えがあるわけではないが、少なくとも「教育」でどうこうする話ではない事だけは確かだ。


これは日本の大人の責務であろう。


この国で生きる大人なら、せめて選挙で投票するぐらいの事は始めた方がいい。肝心な点はどうも教育が足りていないようだ。


教育なら、エリート養成施設を無くした方がこの国のためだ。大人の都合で、子供が勉強だけに偏向される事がなくなる。


この辺から「大人」自身が見直してはどうだろうか。


私もその1人だ。