不安と恐怖


突然、何の前触れも無く不安が襲ってきて、日常生活が苦しくなる。そんな経験をされている人も多いだろう。


だいたいは、全く違う話の心配事や不安の種が波及している場合が多く、一つの心配事が全く別の潜在的にあった不安もひっくるめて拡がってしまう。


私も、自分の健康状態、親や家族のこと、相続したものや身の回りなど、潜在的な心配事は計り知れない。今はどうでもいい過去の後悔もある。


全く違う仕事上などで、独力で解決できない心配事が出来ると、これらが一気に噴出する。


不安や恐怖は、人間の持つ原始的な機能であり、これ自体は生物としての宿命でもある。


元々は、生命を守るための防衛本能であり、これがあるから生物はここまで生きている。


一昔前は、気の持ちようだとか、考えすぎだとか、暇だからそうなるんだ、などと揶揄された。


確かにそれも一理ある。ただ、当事者はそれだけでは納得がいかず、解消もできない。睡眠も満足にとれなくなる。


これが続くと病気になる。


メンタルトレーニング的には、この不安や恐怖を司る原始脳を「騙す」テクニックを教える。


要するに「大丈夫だ」と暗示をかける。


メンタルの強い弱いには、IQとそこから来る遺伝的な気質が関わっているようにも思える。


特に「忘却」が出来る人ほどメンタルは強い。


最近は、忘却が重要だと思う反面、それが社会への無責任さを伴うという「反作用」を思考中だ。


メンタルが強いと仕事を含めたプレーは上手くいくが、個人的な社会性や協調性には軽薄さや冷徹さが出る。


グローバル化や新自由主義のリベラル風潮が、メンタルの強さを強要し、だからこそ忘却を積極的に促す。


一時期の「カッコいい」企業人の姿でもあるが、ここから転じて今や国家を運営する人達にも及んでいる。


過去のしがらみ、古い体質、などと悪印象用語を多用して、忘却の正当化を図る。しまいには何でも自己責任論に転嫁する。


また、不安や恐怖は、「ショックドクトリン」という形で悪利用もされている。


健康、お金にまつわる詐欺も、不安や恐怖の煽りが全てだと言っていい。詐欺とは言えないギリギリの線で企業が販売促進をする場合もある。


コロナ禍で世界中がパニック的な行動になって、ワクチン接種を狂ったように進めたのもショックドクトリンの典型だ。


悪用されるにも関わらず、不安や恐怖は、喉元を過ぎれば綺麗さっぱり忘却しないと生き続けるのが困難になる。


忘却すれば、また同じ不安や恐怖で騙され、悪用され、踊らされる。


これを理解している人が「忘却」をあえて選択せず、潜在的に不安と恐怖を抱えて生活をしている。


その反面、極端でさえなければ、そういう人は、責任感が強く、人としても人望が厚く本当に頼りになる場合が多い。


困ったケースは、これをメンタル強い系の「忘却者」が悪用する。


仕事やお金の前には、責任感の強さがかえって仇になり、「非忘却者」にのみ負担が押しかかり、メンタル的にダメージを受ける。


これが、今起こっている理不尽な社会の仕組みとも言える。


さて、これらはどう解決すれば良いだろうか?


結局のところは、短期的な視点と長期的な展望の違いがある。


忘却が簡単にできる人は短期的な視点なので、浮き沈みの変動が多く、反対に忘却せずに心配事を常に抱えて生きる人は、長期的な展望ができるので、常態化安定化に向かう。


どちらが自分の人生にとって良いのか、であろう。勿論、人には向き不向きがあっていい。


ただ、その違いも分からず、身軽で軽快さを売りに、人を卑下したり悪用すれば、それは自分自身が卑下され悪用されるだけになる。


長い目で見れば、普遍性のある方が正しい。


極度に不安や恐怖を抱えるのは、生活にも支障があり、病的にもなるし悪用もされやすいが、適度に潜在的な不安や心配は、無いよりも程よくあった方がいいように思っている。


だから、織田信長や豊臣秀吉ではなく、根っからの心配性だった徳川家康が天下を平定できたのだと思っている。


ショックは受け入れられない拒絶や否定から怒りに変わり、やがて悲しみが訪れ鬱に変わる。これを経たのち受容ができ、不安も恐怖も治まる。


普遍性は、自分の心理変化を理解しながら、その段階ごとで最善策を探すしかない。


ただ、時代は既に価値観の変化が起きている。短期的では、何一つ変えられず、私利私欲と社会の分断だけが支配してしまう。


今だけ、金だけ、自分だけ


世界中でこれが誤りの根源だと気づき始めた。


もうすぐ時代は変わるかも知れない。