義経伝説


真偽のほどが定かでなく、当時の判官贔屓や、戦前の帝国主義的思考から生まれた虚言であると言われた。


源義経がチンギスハンと同一人物であるという説には、今なお賛否両論があるであろう。


ただこの件が何度も取り沙汰されるのは、明確な肯定ができない反面、完璧な「否定」もできないからだと考えている。


何せ笹竜胆の源氏家紋に似た家紋がロシアやモンゴルでも存在している。その地域では、笹など生息していない。


中尊寺の話と思われるマルコポーロの東方見聞録における黄金の国、シーボルトの論説など、日本人以外にも語られている。


尺とオランダのフート、転じてフィートが同じ長さなのは、モンゴル経由でヨーロッパに伝わったからだという説をシーボルトが語っている。


私は、同一人物であったと思っている。


ただ、私には明確な根拠は何もない。何一つ想像の域を出ない。


しかし、100年の栄華を誇った奥州藤原氏が、源頼朝という新興勢力の前に、貴種の意味では何の遜色もない義経を見殺しにできただろうか?


しかも藤原泰衡と義経は、藤原秀衡の下で兄弟のように青年期の多感な時期を共に過ごしていたはずだ。


そもそも、平家討伐まで成し遂げた「軍神」義経が、むざむざと殺害され、首を差し出すであろうか。


差し出した後は、誰が想像しても、服従か自滅の未来しか無い。そこまで藤原泰衡は愚将であっただろうか?


義経というよりも、私は藤原泰衡に計り知れない隠された「知略」があったと想像している。


これは、高橋克彦さんの「炎立つ」の小説に近い想定をしている。


鎌倉軍が奥州遠征で、泰衡の義兄、藤原国衡率いる平泉軍と衝突したのは、福島県と宮城県の県境近くにある阿津賀志山とされている。防塁が今でも残っている。


どうしても理解できないのは、そこだけで岩手県にある平泉が防御できるとは私にはとても思えない。平泉の手前には多賀城(仙台)だってある。


阿津賀志山は「国見」と言う地名からも、見通しの良い場所で、本気でやるならもっと遠征軍の補給を苦しめるようなゲリラ戦略を含めた様々な戦法があっただろう。もっと言うなら「冬将軍」の到来まで頑強に抵抗する方法を考えたであろう。


ところが、実にあっけなく敗北している。


これが私の一番の疑問であるが、党首代替と逃避のための「時間稼ぎ」のためだったとしたら、この防衛戦の意味が非常に納得できる。


最小限の犠牲で最大限の効果、すなわち、国衡の犠牲を持って、義経や泰衡の生命、平泉の文化と奥州の民や生活を戦乱に巻き込まずに無傷で何一つ影響を与えないようにした。


事実、平泉は完全な形で残り、その荘厳さに頼朝は驚愕した。後の鎌倉は平泉を模写した。


これほど超高度な知性は、当時の坂東武士に多大な影響を及ぼしたに違いない。であれば、坂東武士の「名こそ惜しけれ」の哲学は、平泉が起源かも知れない。


奥州藤原氏の「知的」レベルが非常に高かったと思うからこそ、私は義経が北海道に逃げ、その後ウラジオストクからモンゴルに移動できたと思っている。


そこまで飛躍しなくとも、平泉で亡くならずに生き延びて、天寿を全うしたことだろう。


妄想ついでに、藤原泰衡も一緒に逃避行し、義経がチンギスハンなら、一緒にモンゴル軍を指揮したであろう。


一説には、義経と一緒に亡くなったとされる、泰衡の実の弟、忠衡が義経と一緒に逃避行したという伝説が北海道にある。


元々奥州藤原氏には、安倍貞任にも繋がる蝦夷の血が流れている。北海道の「民」とは繋がっている。


泰衡にも逃避行や生存説が東北地方には残っている。フビライハンは泰衡の子孫だと勝手に考えている。


逃避行中にかなりの人数が付き従って集まり、想像を超える「軍勢」が海を渡ったのではないだろうか。


そう、全ては何一つ根拠もなく、私の勝手な妄想の域を出ない。ただ、東北が貧しく痩せた僻地で、人々にそれほどの知的レベルなどないとする「蝦夷」差別思考が、歴史の真実の前に邪魔している。


それは東日本震災や福島原発事故で、東北がどんなに苦痛や苦難にあっても、口だけサービスして後は「気にしない」為政者やエリート達のやり方を見ればよく分かる。


今なお何処かに蝦夷が残っている。だから、そんな人達には、真の歴史の「義経」は全く見えてこない。


肯定も否定も構わないが、奥州藤原氏の優れた哲学の証明が中尊寺だと言えば、誰もが心の中では認めているのではないだろうか。


だからこそ、贔屓目を超越して、義経は生き延びたと思える。


歴史の定説は、戦後思想が邪魔をして歪められた文系エリートによる「レッテル貼り」の側面があり、今後も何度も書き換えられる事だろう。


それが、日本人自身にも、ヘタをすると世界の人類史にも、過去から未来へと導く「鍵」となるかも知れない。